[相談内容]
インターネットに接するのに苦痛を感じることがあります。
和尚様、インターネットの世界についてお尋ねします。
インターネットの黎明期には、情報の自由な流通が社会をオープンにすると期待されていました。
確かに、多くの情報が手軽に得られるようになり、一部ではその期待が実現したと感じます。
確かに、ある程度その期待は実現しましたが、フェイクニュースや炎上といった負の側面も露呈しました。
さらに、GFAM(Google, Facebook, Amazon, Microsoft)などのプラットフォームが情報と富を独占し、社会における不寛容やインターネット魔女狩りのような現象も見受けられます。
このような状況をどう捉え、仏様の教えを通じてどのように向き合えば良いのでしょうか。
[和尚の回答]
事実を見極め、冷静に対応するのじゃ。また、他者への思いやりを忘れず、言葉一つ一つを慎重に選び、発することが大切じゃ。
なるほど、インターネットの光と影に心を悩ませておるのじゃな。
インターネットという広大な網の目における情報の流れは、まさに万川集海の如し。良きにつけ悪しきにつけ、人の心と行いの映し鏡となっておるのじゃ。仏教では、一切の現象は因果律に基づいて生じ、消えていくと教えておる。この世界もまた、善悪の因果が絡み合い、現象を生み出しておるのじゃ。
仏教の教えでは、万物は「縁起」によって成り立っておると説かれておる。すべての事象は他の無数の要素との関連によって存在し、変化するのじゃ。インターネットもまた、多大な利便性と同時に様々な問題を内包しているという、この「縁起」の一例と見ることができよう。
情報と富の独占、フェイクニュース、炎上、不寛容などの問題に直面した時、私たちは「中道」の精神で対処するべきじゃ。極端に偏ることなく、バランスを取りつつ、事実を見極め、冷静に対応するのじゃ。また、他者への思いやりを忘れず、言葉一つ一つを慎重に選び、発することが大切じゃ。
負の側面に目を向ければ、果てしない煩悩の海に溺れかねん。しかし、その一方で、情報の自由な流通は学びや啓発の機会を無限に広げてくれておる。この両面を正しく見極める智慧が必要じゃ。
不寛容や魔女狩りのような行動には、深呼吸をして、一旦立ち止まり、その行動がもたらす結果を思い浮かべてみるのじゃ。仏教では「因果応報」を説く。良くない行いは、いずれ自分に戻ってくると教えておる。そう考えると、行動を改めるきっかけにもなり得るのじゃ。
インターネットによる情報の独占や不寛容に直面した時、中庸の道を歩むことの大切さを仏教は説いておる。
執着や偏見を捨て、多様性を受け入れる心が肝要じゃ。また、インターネット魔女狩りのような行動は、他者への慈悲心を欠如させておる。自分が他者に対して行う言動が、どのような因果を生むかを常に心に留め、慈悲の心を持って接することが重要じゃ。
結局のところ、インターネットという道具をどのように使うかは、我々の心が決めることじゃ。
情報を得るにあたっては、常に正しい判断を下せるように心がけ、自らも正しい情報を発信し続けることが大切なのじゃ。それによって、インターネットの海が少しでも清らかな水に変わっていくことを願うばかりじゃな。
インターネットは使い方次第で、その価値が大きく変わる。だからこそ、私たち一人ひとりが、その使い方に対して責任を持ち、賢明に行動することが求められておるのじゃ。仏様の教えを胸に、平和で寛容なインターネットの利用を目指していただきたい。