饒舌なる静かな多様性論者のブログ

エアコンはマストアイテム!変わりゆく私の日常:ナチュラルからハイテクへのシフト

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「ナチュラルな暮らし」——かつての私は、この言葉に誇りを持って生きていたように思います。冷えた身体を温めるのは、生姜湯と毛布。夏の暑さには、扇風機と打ち水。風邪をひいても、すぐに病院には行かず、布団にくるまってひたすら眠る。そんなスタイルが、自分らしさの一部だったんです。

エアコンは“あっても使わないもの”。あくまで緊急時のバックアップ。自然の風に身を任せ、四季の変化を肌で感じる生活が、私にとっては豊かで本質的な暮らしでした。

でも、そんな「ナチュラル生活主義」は、少しずつ揺らぎはじめました。

特にここ数年、夏の気温は以前とは比べものにならないほど厳しくなり、寝苦しい夜が続くようになってからです。ある年の猛暑日、私はついに観念してエアコンのリモコンに手を伸ばしました。設定温度は28度。初めてエアコンの風を「心地いい」と感じた瞬間でした。

それ以降、私の暮らしにはエアコンが「なくてはならない存在」となりました。

「快適」に慣れすぎた私たち

昔は、風邪を引いたときでも「薬に頼らず自然治癒を」と考えていたのに、今では少し喉がイガイガするだけで薬局へ向かう。以前の私は、自分の身体と自然が対話する時間を大切にしていたはずなのに、いつしかその“余白”を失っていたことに、ふと気がつきます。

これは、老化というよりも「文化の変化」かもしれません。生活のすべてが効率化され、「すぐに解決すること」が正義とされる現代。そんな社会の中で、私たちは“時間をかけること”や“我慢すること”を忘れてしまったような気がします。

映画『ミリオンダラー・ベイビー』の中で、ヒラリー・スワンク演じるマギーが「痛みがあっても、前に進む」と言い放つシーンがあります。あの言葉が、当時の私のナチュラル思考に通じているようにも感じました。痛みや不快さを受け入れ、それでも歩む。今の私は、痛みがあれば即、対処。不快があれば即、解消。そんなふうに変わってしまったのかもしれません。

エアコンのある快適な部屋で考えたこと

外はうだるような暑さ。窓を開ければ熱風が舞い込み、蝉の鳴き声が響き渡る。そんなある日、私は冷房の効いた部屋の中で、かつての自分を思い出していました。

「自然の風を感じる幸せ」
「季節の匂いを嗅ぐ楽しみ」
「寒さや暑さに耐えた後の、温もりや涼しさの有り難さ」

今では、温度も湿度もボタン一つで思い通り。まるで“自然”に触れること自体が、ノイズのようになってしまった。

この変化は決して“悪”ではないし、文明の恩恵に感謝すべきなのもわかっている。でも、どこかで「失ってしまったもの」に対する寂しさのようなものが心の奥に残っているのです。

自然との距離感を、もう一度見直したい

今の私にとって、エアコンは「必須アイテム」です。もうあの猛暑の中、扇風機だけで乗り切る自信は正直ありません。でも、それでも時々は、エアコンを切って、窓を開けてみたくなる日もあります。

その風は湿っていて、熱気を含んでいるけれど、どこか懐かしくて安心する匂いがする。そんなとき、「ああ、やっぱり私は自然が好きなんだな」と、胸が少し温かくなります。

科学や技術は、私たちの生活を劇的に便利にしてくれました。でも同時に、“不便の中にある豊かさ”を見失わないように、意識的に立ち止まる時間も必要なのかもしれません。

自然との距離感を、もう一度見直したい

今の私にとって、エアコンは「必須アイテム」です。もうあの猛暑の中、扇風機だけで乗り切る自信は正直ありません。でも、それでも時々は、エアコンを切って、窓を開けてみたくなる日もあります。

実際、私の家は山の中にあって、夜になると涼しい風が吹いてきます。そんな立地のおかげで、今のところギリギリ、エアコンを使わずに眠ることができているんです。網戸越しに入ってくる風は、少し湿気を帯びていて、虫の声や木々のざわめきと共に、自然の息吹を運んできてくれます。

それでもふと考えるんです。
この心地よさが減ってきているのは、地球の温暖化のせいなのか。
それとも、歳を重ねた自分に、かつてのような“堪え性”がなくなってきただけなのか——。

どちらにせよ、自然と触れ合える時間や環境がまだあることには感謝したいと思っています。科学や技術は確かに私たちの暮らしを豊かにしてくれたけれど、だからといって「すべて」を人工的に整えるのではなく、時には“自然と共にある時間”に身を置くことも、心の栄養になるのではないかと感じています。

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