私の家族には、四世代にわたって静かに、しかし力強く語り継がれている物語があります。
それは一つの「水筒」と、祖父の命、そして家族の未来にまつわる奇跡のような話です。
物語の始まりは、太平洋戦争の最中。母方の祖父は、軍属としてギルバート諸島(現在のキリバス)へ派遣されました。通信手段も限られ、戦況は不透明。家族との連絡は途絶え、祖母はただ、彼の無事を祈りながら日々を過ごしていたといいます。
やがて戦争が終わり、人々の生活が少しずつ元に戻り始めたある日——祖母の前に、祖父がふらりと姿を現しました。痩せこけ、深く日焼けした顔。そして彼の手には、ひとつの金属製の水筒が握られていました。
その水筒には、銃弾の痕がはっきりと残っていました。
戦地で敵の銃弾が、その水筒に当たって衝撃を吸収し、奇跡的に命をつなぎとめてくれたのでした。
祖母はその水筒を、家の一隅に大切に飾りました。毎日見つめながら、あの日の再会を思い出していたことでしょう。
やがて祖父と祖母の間に娘が生まれました。私の母です。
そう——もしあの時、水筒が祖父の命を救っていなければ、母は生まれていません。そして、私自身もこの世には存在していなかったはずです。
たった一つの水筒が、一人の命を救い、その命が次の命を生み、そして今、私の娘へと受け継がれている。
そう思うと、この家族の物語が、ただの戦争体験ではなく、「命の連鎖」の奇跡であったと気づかされるのです。
その水筒は、長らく祖母の家にありました。けれど時の流れとともに、いつしかその姿は消えてしまいました。引っ越しや整理のなかで、物理的には失われてしまったのです。
でも、私たち家族は悲しみませんでした。
なぜなら、その“物”以上に、“物語”が生きていたからです。
母は、子どもの頃から何度も祖父の水筒の話を聞いて育ちました。そして私もまた、母からその話を受け継ぎました。祖父の命を救った水筒。その物語を、私は今、自分の娘に語り継いでいます。
娘はいつも目を輝かせながら聞いてくれます。「ほんとに? 水筒が命を守ったの?」と、まるで冒険譚のように目を丸くして。その姿を見るたびに私は思うのです。家族の記憶とは、こうして物語として生き続けていくものなのだと。
祖父の水筒の物語も、まさにそれに通じています。
消えた水筒、でも残った命。そしてつながる家族。
あの日、あの場所で、一発の銃弾とそれを防いだ水筒がなければ、母は生まれず、私も生まれず、今の娘の笑顔もなかった。
それは運命というにはあまりに精緻で、奇跡というにはあまりに静かな出来事でした。
でも確かに——命は、つながったのです。
物はいつか失われるけれど、物語は生き続ける。
水筒が物語となり、物語が家族の絆となり、それが世代を超えて今も息づいている。
私たちはこれからも、この小さな“奇跡の記憶”を大切に語り継いでいきます。そうして、過去と未来を静かに、でも確かにつなげていきたいと思うのです。