饒舌なる静かな多様性論者のブログ

理屈っぽい人はめんどくさい?共感の狭間に漂う思い

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「理屈っぽい」と言われる理由を考えてみた——話の解像度と共感のバランス

「理屈っぽいね」と言われることが、これまで何度もあった。

それが悪意のある指摘ではなくても、どこか距離を感じる言葉だった。
でも、私にとって「理屈っぽくなること」は、単なる言葉のこねくり回しではなく、話の解像度を上げ、相手の考えをより深く理解しようとする営みなのだ。

では、なぜ私は「理屈っぽい」と言われてしまうのか?
なぜ、私が相手を理解しようとする行為が、時に逆効果になってしまうのか?

この疑問について、少し考えてみた。(理屈っぽく)

話の解像度を上げること=相手を知ろうとすること

私は、話を曖昧にされるのが苦手だ。

例えば、「あの映画、なんか微妙だったよね」と言われると、すぐに「どこが?ストーリー?演出?役者の演技?」と掘り下げたくなる。
「なんか」ではなく、「どの部分がどういう理由で微妙だったのか」を明確にしないと、どうにも落ち着かない。

私にとって、言葉の解像度を上げることは、話の本質を理解するために必要不可欠なプロセスだ。
人の考えや感情には、それを形成する要素がある。
それを丁寧に分解し、細かく見ていくことで、より深い理解にたどり着けると信じている。

でも、その姿勢が時に「理屈っぽい」と受け取られる。
「もっとシンプルに話せばいいのに」と思われることもある。

なぜなのか?

私がどうしても理屈っぽくなってしまうのは、話の解像度を高め、より深く理解しようとするからです。

私にとって、この「解像度を高める」行為は、相手との心のつながりを深めるための手段なのです。

しかし、このアプローチが逆に「理屈っぽい」と受け取られてしまう理由は何でしょうか?

私たちはよく、共感や心のつながりを重視するべきだと聞かされます。

確かに、人間関係において感情の共有は欠かせない要素です。

しかし、共感を得るためには、相手の言葉や感情の背後にある意味を深く理解する必要があると私は思います。

そのためには、話の詳細に注目し、より高い解像度で情報を処理することが不可欠です。

しかし、この試みがしばしば「理屈っぽい」と見なされるのは、感情よりも論理を優先しているように見えるからかもしれません。人は感情的な生き物であり、時には直感や感覚的な理解が優先されます。

そのため、詳細にこだわりすぎると、相手にとっては感情的な距離感を感じさせてしまうことがあるのです。

また、私たちが共有しようとする「共感」は、必ずしも詳細な情報や論理的な理解に基づくものではありません。

共感は、相手の感情に寄り添い、その経験を自分のものとして感じることです。このプロセスは、詳細な情報よりも、感情的な共鳴によって成り立っています。

つまり、話の解像度を上げることと共感は、必ずしも直接的な関係にはないのかもしれません。

人は必ずしも「理解されること」を求めていない

映画『フリーダム・ライターズ』のワンシーンを思い出す。
主人公の教師は、荒れた学校の生徒たちを理解しようと奔走する。
彼らが抱える貧困や暴力の現実を知るために、徹底的に調査し、彼らのバックグラウンドを細かく分析する。

でも、最終的に生徒たちの心を動かしたのは、「どれだけ彼らの環境を理解したか」ではなく、「ただ彼らの痛みや悲しみに寄り添ったこと」だった。

つまり、「理解」と「共感」は別のものなのだ。

私は、相手の言葉や感情の背後にある理由を知ろうとする。
でも、相手が求めているのは「分析」ではなく、「ただ気持ちを分かってもらうこと」なのかもしれない。

例えば、友人が「仕事がつらい」と言ったとき。
私はすぐに、「何がつらいのか?上司との関係?業務量?将来の不安?」と分析モードに入ってしまう。
でも、その瞬間、友人は「ただ頷いてほしかっただけ」かもしれない。

私はしばしば、話を曖昧にされるとストレスを感じます。

このストレスは、理解の欠如からくるものでしょう。私にとって、話の解像度を上げることは、相手をより深く理解しようとする試みです。

しかし、この過程で、感情的なつながりを損ねてしまうこともあるのです。

結局のところ、理屈っぽさと共感のバランスを見つけることが重要であると私は思います。

話の解像度を上げることと、共感を示すことのバランス

私は「話の解像度を上げること=相手をより深く理解すること」だと思っていた。
でも、相手が求めているのは、必ずしも「詳細な理解」ではない。

共感とは、言葉を細かく分析することではなく、相手の感情に寄り添うこと。
そして、時には「分からないまま寄り添う」ことも、共感の一つなのだと思う。

それでも、私はやっぱり、話の解像度を上げることをやめられない。
それは、私にとって相手を大切にする一つの方法だから。

だからこそ、私はそのバランスを探しながら生きていきたい。
話の細部にこだわりつつも、相手の感情を見落とさないように。
理屈をこねながらも、相手の気持ちに「ただ頷く」余白を持てるように。

理屈と感情、その間で揺れながら、人とつながっていけたらいいなと思っている。

相手の話に耳を傾け、理解を深めることは大切ですが、それと同時に、相手の感情に寄り添うことも忘れてはなりません。

理解と共感は相反するものではなく、互いを高め合うものであるべきです。

私の心がどこに漂っていくのか、時には不安に思うことがあります。

しかし、この探求が、結局は私たちをより深い理解と共感へと導くのではないかと思っています。

理屈と感情の間でバランスを取りながら、人との真のつながりを求めていこうと思います。

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