饒舌なる静かな多様性論者のブログ

『トゥルーマン・ショー』の出口の前で、私はスマホの電源を切れないでいる

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先日、YouTubeのタイムラインを流し見していたら、ある動画が目に留まりました。現代のSNS社会やアルゴリズムの恐怖を、映画『トゥルーマン・ショー』になぞらえて鮮やかに分析する、いわゆる「メタ認知視点」の考察動画でした。画面の中の解説者は、1998年の映画がいかに現代を予言していたかをスマートに語り、コメント欄には「まさに今のSNSのことだ」「私たちは自ら進んで檻に入っている」といった共感の声があふれていました。

その知的でスリリングな語り口にすっかり感化された私は、数年ぶりに、配信サービスで『トゥルーマン・ショー』を観返すことにしました。

気がつけば、映画が公開された1998年から、もう28年もの歳月が流れています。

映画を観終えた私の胸に突き刺さったのは、かつて抱いた瑞々しい感動ではありませんでした。1998年という「あの頃」と、2026年の「今」という地続きの時間を思い知り、そして今、こうして「ブログのネタ」としてキーボードを叩いている自分自身の姿に対する、言いようのないグロテスクさでした。

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第1幕:1998年、私たちは「安全な観客」だった

1998年当時、私はまだ若く、この映画を「メディアの恐ろしさを描いた、ちょっと奇妙で感動的なフィクション」として観ていました。

主人公のトゥルーマンは、生まれた瞬間から人生のすべてを巨大なスタジオの中で偽造され、世界中に生配信されています。映画の終盤、彼がすべてを悟り、世界の果てにある「出口のドア」を開けようとする瞬間、劇中の視聴者たちは息をのんで画面を見つめます。画面の前にいる私もまた、「がんばれ、逃げろ!」と心の中で彼を応援していました。

しかし、2026年の今観直すと、猛烈な自己矛盾に襲われます。そもそも、彼を30年間も騙し、プライバシーを剥ぎ取り、檻に閉じ込め続けてきたエネルギーの源は何だったのか? それは他でもない、「他人のリアルな人生を覗き見したい」という、テレビの前の視聴者――つまり、映画を観ていた私たちの自身の欲望をカリカチュアしたものだったはずです。

1998年の私たちは、自分を「無実の観客」だと思い込んでいました。しかし実際は、彼を消費し、檻に閉じ込めるシステムの共犯者だったのです。映画はまず、私たちの「消費の加害性」を冷徹に突きつけてきます。

第2幕:2026年、1億総トゥルーマン時代の到来

1998年当時、インターネットはまだダイヤルアップ接続の時代で、スマホなんて影も形もありませんでした。あの頃のシーヘブン(偽りの街)は、テレビ局という巨大な権力が作り上げた、遠い世界のディストピアでした。

しかし、それから4半世紀以上が経った2026年の今、事態はさらに悪化しています。なぜなら私たちは、「自ら進んでトゥルーマンになり、同時にプロデューサーにもなっている」からです。

映画のトゥルーマンは「騙されて」配信されていましたが、今の私たちはInstagramやTikTok、YouTubeで「自ら進んで」私生活を世界に切り売りしています。スマホの画面に並ぶ加工されたタイムラインは現代のシーヘブンであり、私たちが日常に滑り込ませるタイアップ投稿やインフルエンサーのPRは、劇中で妻のメリルが不自然にモカここアの宣伝をしていた姿そのものです。

かつて画面の外からトゥルーマンを哀れんでいたはずの私は、今や「いいね!」の通知やPV数を求めて、自ら進んで檻のスポットライトを浴びに行っています。

第3幕:メタ論評という「最も洗練された檻」をブログのネタにする私

ここまでは、あのYouTubeの解説者が言っていた通りです。確かに鋭い指摘だし、私も映画を観ながら「本当にその通りだな」と深く納得していました。

しかし、まさにその瞬間、背筋が凍るような最大の恐怖が襲ってきました。

「現代社会はトゥルーマン・ショーだ」と賢そうに分析し、それをさらに「ブログのネタ」として消費しているこの私自身もまた、システムに完璧に飼い慣らされているのではないか?

映画のプロデューサー・クリストフの恐ろしい才能は、トゥルーマンの「反抗」すらも番組のドラマとして消費させたことです。現代のデジタル資本主義(アルゴリズム)は、それをさらに進化させています。

「現代社会の闇を暴く批評」や「SNS批判」は、ネット上で最もバズる格好のコンテンツです。私が今書いているこのブログ記事も例外ではありません。「映画の鋭いメタ考察」というパッケージを纏うことで、アクセス数を稼ぎ、自分の知性を誇示し、あわよくば検索流入を増やそうという下心がどこかにあります。

「私は社会の欺瞞に気づいている」という知的な全能感(メタ認知)さえも、システムにしてみれば想定内の「娯楽」として完璧に回収されています。私は檻の壁を叩いて抗議しているつもりですが、「システムに抗議する自分の姿」すらもブログの記事として商品化しているのです。これ以上の悪趣味があるでしょうか。

映画のラスト、トゥルーマンが脱出した瞬間、テレビの前にいた警備員たちはこう言いました。

「さて、他のチャンネルには何が映ってる?」

彼らにとって、トゥルーマンの30年の人生をかけた大脱出劇も、結局は「退屈しのぎのコンテンツ」に過ぎなかったのです。このブログを読み終えた読者も、そしてこの記事を書き終えた私も、「いい記事だったな、さて次はどのサイトを見ようか」とスマホをスクロールします。その姿は、あの警備員たちと完全に重なっています。

出口のドアの前で

1998年に映画館で感じた純粋な応援の気持ちは、2026年の今、巨大なブーメランとなって自分に突き刺さっています。

『トゥルーマン・ショー』を久しぶりに観て行き着いた本当のメタ視点とは、社会をスマートに分析し、それをブログのネタに昇華して満足することではありません。

「あ、いま自分は『システムを批判する賢いブロガー』を演じて、やっぱりスマホの画面に人生の時間を吸い取られているな」と気づくことです。

私たちは檻の構造を解説するプロにはなりましたが、檻から出る方法を忘れてしまいました。劇中のトゥルーマンは、理屈や批評、ブログのネタにするためではなく、「ここではないどこかへ行く」という圧倒的な本気さ(ベタな衝動)だけで、嵐の海を渡り、スタジオの壁を突き破りました。

もし私があの出口のドアを開けたいと思うなら、今すべきことは、このブログのアクセス数を気にすることでも、次の記事のネタを探すことでもないはずです。

今すぐ、この下書きを保存する手を止めて、スマホの電源を切ること。それだけです。

……分かってはいます。分かってはいるのですが、私は「公開ボタン」を押す誘惑に勝てず、この記事がどれくらいのアクセスを集めるのかを、きっと明日も気にしてしまうのでしょう。

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