20年くらい前、友人たちとお好み焼きを焼いていたときのことです。
みんなで鉄板を囲んで、わいわいやっていた。生地が焼けてきて、そろそろひっくり返すかというタイミングで、誰かが言いました。「ひっくり返すときって、遠心力が大事だよね」。
私はすぐに言ってしまいました。「いやいや、遠心力じゃないでしょう」。
微妙な空気になりました。場がふっと静かになって、みんな別の話題に移った。発言した本人も、ちょっと困ったような顔をしていた気がします。
あれから20年、ずっとモヤモヤしています。自分は正しかったのか。そもそも「遠心力」って言うのか。なぜあのとき訂正してしまったのか、と。
「遠心力が大事」は正しかったのでしょうか。
遠心力とは、回転する物体の中にいる観測者が感じる「外向きに引っ張られる力」のことです。洗濯機の脱水、カーブを曲がるときに体が外側に引っ張られる感覚、ああいうものです。回転運動に伴う擬似的な力と言えます。
お好み焼きをひっくり返す動作を思い出してください。へらを差し込んで、手首をくるりと返す。あの動作は確かに弧を描く回転運動ですが、決定的な役割を果たしているのは遠心力というより「慣性」と「角運動量」です。勢いよくへらを動かすことでお好み焼きに回転の力が加わり、180度転回する。ざっくり言えばそういうことです。
なので物理的には、「遠心力が大事」は厳密に正確な表現ではありません。私の「違うでしょう」は間違いではなかった。
ただ、20年間のモヤモヤの正体は、そこではなかったのです。
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哲学者のヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という概念を提唱しました。言葉の意味は、それが使われる状況や文脈の中で決まる、という考え方です。辞書の定義が意味を決めるのではなく、「誰が、誰に向けて、どういう場で使うか」によって意味が変わる。
「遠心力が大事だよね」という発言を、その場の文脈で受け取ってみます。お好み焼きを楽しく焼いている場面、みんながわいわいしている、ひっくり返しの瞬間の高揚感。その中でその人が言いたかったことは何だったか。おそらく「勢いよく、ぐるっと回す感じで、思い切ってひっくり返すといい」ということです。それを「遠心力」という言葉で表現した。
その意味で言えば、発言は場の文脈の中で完全に機能していました。みんながその意図を理解していた。場が盛り上がっていた。それを私が「いやいや遠心力じゃないでしょう」と止めた。
物理的には正しかったかもしれないけれど、言語ゲームの中では私が場を壊した側でした。
事実として正確かどうかという「正しさ」と、場の中で機能しているかどうかという「正しさ」は、別物だということだと思います。
プラグマティズムの考え方では、「うまく機能することが正しい」という基準があります。「遠心力」という言葉が、お好み焼きをひっくり返すコツを伝える言葉として、その場で機能していたなら、それは「正しく使われていた」と言えるかもしれない。
私の訂正は、この機能を止めました。「遠心力じゃない」と言ったことで、場が一瞬「物理の授業」になった。楽しいお好み焼きパーティーが、急に正確な用語を問われる空間になった。これはプラグマティズム的に言えば、「うまく機能しなかった」訂正です。
あのとき「違うでしょう」と言ってしまった理由を、今になって考えます。
意地悪にしたかったわけではありません。相手を馬鹿にしたかったわけでもない。ただ、頭の中で「これは正確じゃない」という信号が点滅して、気づいたら口から出ていた、という感じだったと思います。
これは今も完全には直っていないと思っています。「それって厳密には違くて」と言いたくなる衝動は、いまでもたまにある。ただ、年齢を重ねるにつれて、「今それを言う必要があるか」という問いを少し挟めるようになってきた気がします。20年前の自分には、その問いがなかった。
「自分は正しかったのか」という問いが、ずっとモヤモヤの中心にありました。でも今になってわかる気がするのは、「正しさ」の定義が揺れていたから答えが出なかったのだということです。
物理的には正しかった。言語ゲームの中では正しくなかった。どちらの「正しさ」を基準にするかによって、答えが変わります。そしてその問いに20年間、どちらで測るべきかが決まらないままでいたのだと思います。
今の自分なりの答えとしては、あの場では「言語ゲームの正しさ」を優先すべきだったと思っています。楽しい場を壊してまで物理の正確さを守る必要はなかった。ただ、だからといってあのときの自分を責めたいわけでもない。正確であることへの素直な反応だったとも思うのです。
お好み焼きをひっくり返すときに何が大事かと聞かれたら、今なら「勢いと度胸」と答えると思います。遠心力かどうかより、思い切ってやるかどうかの方が大事でしょう、きっと。
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