饒舌なる静かな多様性論者のブログ

カバンの中の猫—現実は、忘れ物の数だけ揺らいでいる〜シュレーディンガーの目線〜

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朝、家を出て数歩歩いたあたりで、ふと立ち止まることがある。
「……スマホ、持ったっけ?」

出かける前に「持ったはず」のスマホが、電車に乗った途端、気になりはじめる。
カバンの中に入れた記憶はある。たぶんある。
でも、ちょっと不安。もしかして充電中で、机の上に置きっぱなしだったんじゃ……?

そんなとき、私の世界はふたつに分かれる。

  • A:カバンにスマホがある世界
  • B:スマホを忘れてきた世界

この瞬間、私の中の現実はぐらりと揺れる。

私の脳内ではそのスマホが「あるし、ないし」の状態にある。
まだ確認していない。観測していない。

さっきまで“あったはず”のスマホは、その存在を曖昧にし、
“あるかもしれないし、ないかもしれない”という、
量子的な存在へと姿を変える。

このとき私はまるで、量子物理学の思考実験「シュレーディンガーの猫」の中にいるような気分になる。

箱の中の猫は、カバンの中に引っ越した

「シュレーディンガーの猫」とは、量子力学における“観測問題”を説明するための例え話だ。
箱の中の猫と、確率で作動する毒ガス装置。
猫の生死は、量子レベルで決まる。
そして、観測されるまでは「生きている」と「死んでいる」が同時に重なり合った“量子の重ね合わせ”状態にある。

これは本来、物理学の世界の話である。

けれど、今朝の私はこう思った。
カバンの中のスマホが、まさにその“猫”なのではないか。

私はまだカバンを確認していない。
だからそのスマホは、「ある」し「ない」。
観測するまでは、両方の可能性が重なったまま、そこに“いる”。

私たちは日々、観測するまで確信を持てないものを抱えて生きている。
それはスマホであり、財布であり、愛であり、希望であり、未来だ。

忘れ物とは、脳内の量子揺らぎである

脳は電気信号で動いている。
私たちが「現実」だと思っているものは、実は五感の入力と過去の記憶、そして少しの思い込みによって編み上げられた、“脳内再構成映像”のようなものだ。

つまり、忘れ物をしたかどうかというのは、単なる物理的な問題ではなく、
**脳内の“未確定領域”**の問題でもある。

スマホは、ある。けれど、私にはまだそれがわからない。
現実は、そこにあるはずなのに、私の認識はまだそこに届いていない。

意識は量子的なのか?──シュレーディンガーの視線で、日常を見つめる

ここで登場するのが、「意識と量子力学をつなぐ」仮説だ。

ノーベル賞を受賞した数学者ロジャー・ペンローズと、麻酔科医スチュアート・ハメロフが提唱した「Orch-OR(Orchestrated Objective Reduction)理論」によれば、
人間の意識は、脳内の微細な構造(微小管)で起きている量子的な重ね合わせから生じるのだという。

その重ね合わせが一定の条件で崩壊し、
意識が「今ここで、確定した」と感じられる。

つまり、私たちが何かを「はっきり認識する」その瞬間は、
単なる電気信号による処理ではなく、
もっと深い、**自然の“揺らぎ”の中で決まっているのでは?**というわけだ。

すると、こうも言えるかもしれない。

私がスマホを持ったかどうかを「思い出そうとしている」状態は、
私の意識の中で、確かに“重ね合わせ”になっている。

そして、カバンの中に手を突っ込み、スマホの感触を得た瞬間──
猫は跳ね起きた。
いや、スマホは“そこにあった”と、現実が確定する。

この一連のプロセスは、じつに量子的であり、
「観測が世界を確定させる」という意味において、
私たちは量子猫を毎日、カバンに連れて歩いているのだ。

この世界は、観測によって立ち上がる

もちろん、物理的な現実は客観的に存在している。
スマホがカバンの中にあるかどうかは、
私が確認しようがしまいが、最初から決まっている。

けれど、私の現実は、それを知覚したときに初めて立ち上がる

  • メールを開いて、初めて「嫌な知らせ」とわかる
  • 鏡を見て、初めて「老けたな」と気づく
  • 誰かのまなざしに、ふと気づいて、初めて「大事にされていた」と知る

現実は、知覚によって確定していく。
私たちの人生は、その確定の積み重ねによって、物語として紡がれていく

おわりに――シュレーディンガーの目線で生きてみる

忘れ物に振り回される朝は、少し哲学的だ。

不確かなものに囲まれて生きている私たちにとって、
「確かめる」という行為だけが、現実に触れる手段になる。

それは、意識の限界と揺らぎの象徴であり、
そして何より、「世界はまだ確定していない」という小さなドラマだ。

スマホは、あるかもしれないし、ないかもしれない。
でも、確かめた瞬間、猫は跳ね起きて、こちらを見上げる。

シュレーディンガーの猫は、もはや研究室にいない。
それは、私たちの日常に息を潜め、
カバンの中で、そっと、生きている。

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