饒舌なる静かな多様性論者のブログ

関西万博にモヤモヤして、“あつ森のようなインパク”を勝手に妄想してしまった

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あつ森的なパビリオンが点在する島のイラスト。小さな個人展示が集まるネット空間を表現

正直、2025年の大阪・関西万博がしっくり来ていない。

未来を描くはずのイベントなのに、どこか古臭く感じてしまう。「なんか古い」「響いてこない」「ピンとこない」。SNSでもそんな声をちらほら見かける。

それもそのはず。
私たちはすでに“情報の飽和状態”に生きている。

スマホ一つあれば、世界中の知恵やテクノロジーにアクセスできるこの時代に、「あえて集めて展示する」という万博の形式は、まるで“情報の渋滞”のように感じられてしまう。

なぜ「万博」が今しっくりこないのか?

万博という形式は、20世紀的な「ハコモノ文化」の延長線上にある。
つまり、「新しいものをどこかに集めて、それを見せる」という構造。

でも今、私たちにとって“新しい”ものは、物理的な会場に行かなくても体験できる。
YouTubeもTikTokも、世界の博覧会さながらの多様性と発見に満ちている。

「どこでも見られる」が当たり前の今、「わざわざ会場に来い」はズレている。

もちろん、「万博とネット展示は目的が違う」という意見もある。それは確かにその通りだと思う。
ただ、僕が言いたいのは、「比較するな」ではなく、「そこに“行く価値”が、以前ほど感じられなくなってきているのでは?」という問いだ。

万博に感じる「違和感」の正体

たとえば、今回の大阪万博が開催される夢洲(ゆめしま)は、カジノ構想と一体で語られている。
正直、「しょせん万博はカジノの露払い」という見方すらある。未来を描くふりをしながら、裏では巨大な利権と政治的な思惑が動いている。そんな空気感を完全に拭い去るのは難しい。

そしてその不信感は、会場設計や展示内容の構成にもどこか滲み出てしまう。
「未来のために」ではなく、「誰かのためのショーケース」に見えてしまう瞬間がある。

展示の多くは、企業や団体が用意した“見せ物”で、私たちはそれを受け身で眺めるだけ。
体験型ブースが増えてきているのは確かだけど、それも基本は「用意されたコース」に沿って体験する構造。

参加者が「作る側」になる余地は、ほとんどない。

“一周回って”インパクのほうが未来だった

そんなとき、ふと思い出すのが「インパク(インターネット博覧会)」だ。
2001年、総務省主導で行われた、完全オンラインの“ネット万博”。

今振り返れば、正直あれは不格好だった。UIも不親切、リンクはカオス、パビリオンと個人ページがごちゃ混ぜ。
でも、だからこそ“熱”があった。誰でも出展者になれたし、深夜に漂うように展示を巡る感覚が、不思議と楽しかった。

「展示=一方向」じゃなく、「関与=双方向」。
思想としてのその構造は、今こそ再評価されるべきものだと思う。

……とはいえ、インパクは成功だったのか? と問われれば、正直、答えに詰まる。

自分自身もインパクのサイトをほとんど見に行ったわけではないし、当時の総括記事をあらためて読み返してみても、「記録は消え、税金が使われただけだった」とする批判は根強い。
実際、イベント終了後、政府サーバに置かれていたインパク関連のサイトはほとんどアクセス不能になり、アーカイブも残らなかった。

「初心者向け」と銘打っておきながら、UIは難解で、参加のハードルも高かった。
政治的な拙速、コンセプトの迷走、「バーチャル博覧会」という重たい形式へのこだわり──
どれも、当時の“ネットをよくわかっていなかった大人たち”の限界だったのかもしれない。

だから僕は、「インパクはすごかった」と単純に言いたいわけじゃない。

でも、その試みの中に宿っていた“思想”──
誰もが発信者になれる可能性、関与できる構造、作る側に立つ喜び
そこにこそ、令和のいま改めて向き合いたい価値があるんじゃないかと思っている。

それが当時の「Web的ハコモノ行政」から生まれた、ぎこちない模倣や表面的なフォーマットだったとしても、
その端っこには、たしかに“誰かのまなざし”があった気がするのだ。

オンライン展示は知っている。でも……

2025年の万博にもオンライン連動展示はある。それは知っている。
でも、映像コンテンツやライブ中継にとどまっている限り、インパク的な意味での“参加型”とは違うと思う。

問いたいのは、「自分が“誰かになる”空間があるか?」「自分の物語を投影できる余白があるか?」ということだ。

そして、ふと我が家のことを思い出す。
とても遅まきながら、昨年の12月頃から『あつまれ どうぶつの森』を始めた。
最初は子どものために買ったつもりだったけど、気がつけば大人のほうが夢中になっている。

島の中には、誰かが時間と想像力を注いで作った空間があって、そこを訪ねると、
「これはあの人の物語だな」と思える“まなざし”がある。

「あつ森」は、少し不思議なゲームだ。展示でもSNSでもない。けれど、人の工夫や余白が、他者の想像と自然につながる
もしかすると、それは「令和版インパク」のひとつのヒントかもしれない。

メタバースは失速した。でも“人の熱”は必要だ

一時期、メタバースやVRが未来の舞台としてもてはやされた。けれど、今はどこかトーンダウンしている。

なぜか?
技術はあっても、そこに「誰かのまなざし」がなければ、人の心は動かないからだと思う。

今、求められているのは──ただ並べた情報ではなく、
「伝えたい」という思いが編まれた物語。誰かの体温が滲むコンテンツ。そういう“熱”じゃないだろうか。

じゃあ、万博っていらない子なの?

そう読まれたかもしれないけれど、僕は「万博なんていらない」と言いたいわけじゃない。

むしろ、行ったら行ったで楽しめる気もしている。
テンションの高まり、そこでしか起きない“化学反応”──そういう瞬間に、心を揺さぶられることもある。

2020年の東京オリンピックだって、開催前は批判だらけだったけど、始まってみたら感動があった。
「ウェーイ」が必要なことも、ちゃんとわかっている。

でも、だからこそ思うのだ。

締めくくりに考える「どこで」「誰と」「何のために」盛り上がるのか。

それを丁寧に問うことは、熱狂を否定することじゃない。
むしろ、その熱狂の価値を信じているからこそ、その土台を見つめ直したい。

折しも、万博の会期中に「ニンテンドースイッチ2」が発売される。
もし、『あつまれ どうぶつの森』の新作の中で、“令和版インパク”のようなものが実現したら──
それはもしかすると、いちばん自然で、いちばん多くの人が参加できる「未来の博覧会」になるかもしれない。

島ごとに個人のパビリオンがあり、プレイヤーが展示者でもあり、観客でもある。
季節や時間、住民との関係性によって物語が進化していく。
コメントやおみやげを残しながら、世界中の人とささやかなやりとりが生まれる──

それは、「どこかに集まって見せる万博」とはまったく違うかたちの、“つながる未来”のあり方だ。

もちろん、これはノスタルジーも混じった妄想かもしれない。
2001年のインパクが、どこか不格好だったように。今の僕の想像も、きっと荒削りだ。

でも、それでも思ってしまうのだ。
「あのときの不完全さの中に、“誰かのまなざし”が確かにあった」と。

万博じゃなくてもいい。メタバースでもVRでもない。
必要なのは、「伝えたい」と願う人と、それを受け止める誰かの、ささやかな交差点。

「一周回って、あつ森のようなインパク」。

あの、ちょっと不格好で、でもどこか人間くさかったネット博覧会が──
もしかしたら、“あつ森”のようなゲーム空間の中で、
もう一度、未来を語る準備をしているのかもしれない。

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