饒舌なる静かな多様性論者のブログ

ChatGPTでジブリ風AI画像を生成してみた。けれど心に残った問題の違和感の正体を探ってみた。

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最初にこの画像を見て、あなたはどう感じましたか?

※この画像は、「AIでジブリ風画像を生成している人をジブリ風に画像を生成して」とAIに指示して作られたものです。スタジオジブリとは一切関係ありません。

「すごい」と感じましたか?
それとも、「うーん、なんだかちょっと引っかかる……」?

この記事では、そんな“ジブリ風AI画像”をめぐる**「違和感」**について考えてみたいと思います。

SNSで話題の“ジブリ風AI画像”に感じるざらつき

最近、SNSなどで話題になっている“ジブリ風”AI画像。
その完成度の高さには、たしかに驚かされます。思わず感動してしまうほどの作品もあります。

でも、心のどこかでふと立ち止まってしまう瞬間があるんです。

「著作権的には問題ないらしい。でも、何か引っかかる気がする」。

そう、何かがモヤモヤする。
それはたぶん、「ジブリっぽさ」という雰囲気が、文脈や敬意を飛び越えて、ただ“使われている”ように感じるからかもしれません。

そして、その“使いやすさ”の裏には、私たちが普段あまり意識しないもうひとつの文脈——AIという技術が、何千億円という巨額の資金と激しい開発競争の上に成り立っているという事実——もあります。

無料でジブリ風画像が生成できることの裏側には、OpenAIのような企業が莫大な投資を受け、各国の大企業や政府が入り乱れる“競争”の構造が存在しています。

そう思うと、“感動した”という一言の背後に、私たちはどんなものを乗せてしまっているのだろう……と、ふと考えたくなるのです。

しかも、その違和感ですら、AIが生成した文章で“それっぽく”言語化していたりする。

これは、ただの技術論争ではありません。
私たち一人ひとりの「関わり方」や「創作に対する姿勢」が問われている話なのかもしれません。

【私自身の立場から】

私はアートに携わる者として、創作物に対して深い敬意を持っています。
そして、作品の背後にある時間・試行錯誤・魂のようなものに、なるべく丁寧に向き合いたいと思っています。

だからこそ、「雰囲気だけを取り出して使う」ことに、どこかためらいを感じる。
それが、たとえ法的には問題がなかったとしても。

けれど、同時に思うのです。
私たち自身が、無意識に誰かの表現に“乗っかって”創作してきたことがなかっただろうか?

言葉のリズム、構図の選び方、表現スタイル……
あらゆる創作が「模倣」と「再解釈」の積み重ねの上にあるなら、
AIによる“それっぽさ”もまた、そこに連なるものなのかもしれない。

さらに興味深いのは、こうした問題を批判する言説の中にも、実はAIの手を借りて書かれたものが少なくないということです。
これはただの技術論争ではなく、私たち一人ひとりの「姿勢」や「関わり方」を問われているテーマなのかもしれません。

「いや、別に著作権違反じゃないんだけどさ……」
そう言いながら、何とも言えないモヤモヤを抱えてスクロールを止める——最近そんな瞬間が増えている。話題の“ジブリ風”AI画像。完成度の高さに驚かされる一方で、「これってアリなの?」とつい考えてしまう。

ネット上では、この問題に対して様々な意見が出ている。でも面白いのは、そうした批判の言葉もまた、AIによって書かれている場合があるということ。
これはただの技術論争ではなく、私たち一人ひとりの「態度」や「無意識の加担」を問われている話なのかもしれない。

「ジブリ風画像」の何が引っかかるのか

あの画像を初めて見たとき、すごいと思いました。正直、ちょっと感動した。でも、同時に妙なざらつきが心に残った。「ジブリっぽさ」をAIが再現すること、それ自体には驚きがあるけど、それを“自由に使っていい”とする空気には、うまく言葉にならない違和感がありました。

ジブリのあの世界観は、長い時間をかけて築かれたものだ。作品ごとに何度も試行錯誤を繰り返し、画面の隅々まで神経が行き届いている。それを雰囲気だけ取り出して、無料のツールで「それっぽい何か」を生み出します。

それは“便利”で、“面白い”し、“盛り上がる”。でもその便利さの裏にあるものを、私たちはちゃんと見ているのでしょうか。

誰かの表現に“乗っかる”ということ

たとえば、自分のイラストや写真が、誰かに「ネタ」として勝手に使われていたら? あるいは、表現の一部だけを切り出されて、自分の意図とは違う文脈で拡散されていたら?

たぶん、少しムッとすると思う。
でも、自分がその“ムッとさせる側”になっていないとは言い切れない。

私も、自覚なく誰かの作品に乗っかってきた。言葉のクセ、デザインのトーン、アイデアの枠組み……「これ、あの人のっぽいな」と思いながら、ちょっと拝借したこともある。たぶん、みんなそういう経験はあるんじゃないでしょうか。

だから、「AIでジブリっぽい画像を量産するのは倫理的にNGだ」と強く言い切ってしまうことに、どうしてもためらいがあります。
批判する私自身、そして私達が、その構造のどこかに加担しているかもしれないからです。

便利さと倫理のあいだで

テクノロジーの進化は止まりません。AIがあっという間に進化し、「使ってみたらすごかった」という感動は、たしかに嘘じゃないと思います。

でも、その感動の中に誰かの時間や労力が無意識に含まれていたとしたら?
それを「仕方ない」「時代の流れだから」と片付ける前に、もう少し立ち止まってみたいとも思います。

たとえ自分が直接誰かを傷つけていなかったとしても、「ノリ」で拡散したり、「面白がって消費」したりすることで、間接的にその構造を肯定してしまっている場合もあります。

自分の中にある“矛盾”とどう向き合うか

この記事を書くにあたっても、自分の中に矛盾がありました。
AIに対する違和感を、AIの手を借りて文章にしている。
これって、どうなの?って思いながら、でもやっぱり便利だし、表現したいことがうまくまとまります。

そんな自分の曖昧さに、少しだけ向き合ってみました。
そして思ったのは、大切なのは、完璧な答えを出すことじゃない。自分の立ち位置に無自覚でいないこと。ではないでしょうか。

グレーの中で何を選ぶか

ジブリ風AI画像を「倫理的にアウト」と感じる感覚は、きっと間違っていないと思います。でも、そこで終わると、少しもったいない気がします。

私たちは日々、無数の「ちょっと拝借」に囲まれています。その多くは意図的でなく、空気のように当たり前になっているはずです。

「自分の生み出したものはすべて自分のオリジナルだ」というのは、誰にとっても嘘ですよね。
だからこそ、「これは本当に乗っかっていいのか?」と自分に問いかける時間が、今は必要なんじゃないかと思います。

たしかにその感覚は理解できます。でも、それをもって「グレー」「搾取」と断じる風潮に、私は少し違和感を覚えます。

なぜなら——
歴史を見れば、「◯◯風に乗っかること」は、むしろ文化を発展させてきたからです。

模倣は“ズル”ではなく、“スタート地点”だった
人類の創作史において、オリジナリティとは“神話”です。
何も参考にせずに生み出された文化など、存在しません。

✅ たとえば:印象派は「浮世絵風」に乗っかった
19世紀末、ヨーロッパの芸術家たちは、日本の浮世絵に魅了されました。
特にモネやゴッホ、ドガは、大胆な構図や色使いを“模倣”しました。

現代ではこの動きを「ジャポニズム」と呼び、印象派の革新に大きく貢献したと評価されています。

→「雰囲気に乗っかった」ことが、新しい芸術運動を生んだわけです。

✅ たとえば:ディズニーはグリム童話や民話に“乗っかって”きた
『白雪姫』『シンデレラ』『アラジン』……
ディズニーの名作の多くは、民話・神話を元ネタにして大胆にアレンジした“ディズニー風”作品です。

それを批判する声もありますが、結果として、無数の子どもたちが物語に触れる機会が生まれ、文化的インフラとして根付いています。

→ 元ネタに“乗っかる”ことは、創造の土壌になるのです。

✅ たとえば:ヒップホップは“サンプリング文化”から始まった
既存のレコードの一部を切り取り、新たなリズムを加えて別の文脈に再構成する。
これがサンプリング=ヒップホップ文化の源流です。

批判もありましたが、いまやアートとして確立されています。

→「一部を切り出して再構成する」文化は、現代でも当たり前になっています。

ジブリ風AI画像も、その延長線上にあるのでは?
もちろん、AIが「誰かの世界観を再現」しているということに違和感を覚える気持ちは大切です。

でも、それは決して新しい問題ではありません。
私たちはずっと、“乗っかって”“いじって”“新しい文脈で再構成して”文化を広げてきました。

「違和感」は“文化の入口”である
過去の模倣文化も、登場当初は「これはオリジナルじゃない」「敬意がない」と言われてきました。
でも、それを超えていくのは、“感動”や“使いやすさ”、そして“表現の裾野を広げる力”でした。

AIによる画像生成もまた、そうした“拡張”の一部なのではないでしょうか。

表現の民主化と“軽さ”のあいだで
確かに、AI画像には「軽さ」があります。
一瞬で、誰でも「それっぽい」ビジュアルを作れる時代。それは創作にとって脅威でもある。

でも裏を返せば、それは表現のハードルが下がったことの証明です。

今まで“再現できなかった”人が、「ジブリ風」という感性に触れ、創作のきっかけを得る——それ自体に価値があるはずです。

そして、「悪用」と「活用」を分けて考えるべきだ
AIを使って商用に乗せたり、ジブリ公式のように見せかけたりする行為は、当然慎重になるべきです。

でも、ただの“雰囲気を楽しむ”“ファンアート的な投稿をする”ことまで否定するのは、過剰反応ではないでしょうか。

歴史は、“乗っかり”から何かを生み出す力に満ちていました。

・ジャポニズムの画家たち
・民話を再構成したディズニー
・サンプリングで再解釈したヒップホップ

いずれも、“違和感”を越えた先に文化があったのです。

だからこそ、私たちはこう問い直してもいいのではないでしょうか。

「それ、ジブリっぽくてズルい」ではなく、
「ジブリ風を通して、あなたは何を作ろうとしているの?」と。

上記のような視点もあるかと思います。

一旦整理してみましょう。

【視点を整理する】

🎭 内省派(違和感を抱える立場)

  • ジブリ風AI画像は、作者の文脈や敬意を省いて“雰囲気だけ”を消費している
  • 一瞬で再現されることに、時間をかけた創作への無理解を感じる
  • 自分も過去に“乗っかってきた”経験があるからこそ、軽々しく批判もできない
  • だから、「問い続けること」が今の自分の選択

🧠 擁護派(模倣は文化の一部とする立場)

  • ジャポニズム、ディズニー、ヒップホップ……文化の発展は模倣から始まった
  • AIは“ズル”ではなく、新しい表現の入口になり得る
  • 表現が誰にでも開かれること(民主化)には大きな意味がある
  • 重要なのは、「悪用」と「活用」を切り分けること

【対話形式】──違和感と希望のあいだで

🎙 登場人物

  • Aさん(内省派)=私の内なる違和感
  • Bさん(擁護派)=歴史と拡張の視点

🟡 Aさん(内省派)
AIがジブリっぽい世界を描けることは、すごいと思う。でも、それが何も考えずに使われたり、SNSで“いいね”を稼ぐために拡散されたりするのを見ると、どこかでため息が出てしまう。
あの世界って、そんな軽いものだったっけ?って。

🔵 Bさん(擁護派)
その気持ちはわかるよ。でもね、「◯◯風に乗っかる」って、昔からずっとやってきたことなんだ。
モネやゴッホが浮世絵に影響を受けたみたいに、文化って“乗っかり”と“再構成”で育つ面があるんだよ。

🟡 Aさん
でも、モネやゴッホは、自分の手で描いたでしょ?試行錯誤したし、リスペクトもあった。
AIは“ポチッ”で一瞬。手間も時間もない。そこに“創作への敬意”があるようには思えなくて。

🔵 Bさん
たしかに、AIは手間を省く。でも、それを使う人間が何を考えるかが問われているんじゃないかな。
AIで「ジブリ風」画像を作って、自分の創作の種にする人もいるし、「これはAIが作った雰囲気模倣です」って明示する人もいる。
それって、AIをただの“ズル”として使ってるわけじゃないよね?

🟡 Aさん
うん……たぶん、「どう使うか」「どんな姿勢で扱うか」が鍵なんだよね。
でも、“ノリ”で使われると、やっぱりモヤモヤする。そのモヤモヤが、「敬意が欠けているかもしれない」という懸念につながる。

🔵 Bさん
その違和感も、文化の入口かもしれない。
昔のサンプリング文化も、最初は「盗作だ」と叩かれた。でも、それを超えて新しい文脈が生まれてきた。
AIが生む“雰囲気”にも、未来の文化の種があるかもしれない。

🟡 Aさん
たぶん私は、正解がほしいんじゃなくて、問いを手放したくないんだと思う。
自分が“乗っかる側”になっていないか、無自覚になっていないか——その確認を忘れたくない。

🔵 Bさん
その姿勢、すごく大事だよね。
模倣も拡張も、どこかに「敬意」がないと、ただの搾取になっちゃう。
だからこそ、問い続ける姿勢と、活用する自由の両方が必要なんだと思う。ら

以上、対話形式で考察してみました。

私の立場と考え

私は、創作する人たちの汗や想像力に対して、やっぱり敬意を持っていたい。
そして同時に、創作が「他者の表現に触れ、真似、学び、広がっていくもの」だということも忘れたくない。

ジブリ風AI画像は、私に問いを投げかけてくる。
「それ、使っていいの?」ではなく、
「あなたはその画像と、どう関わるの?」と。

正解は、まだわかりません。
でも、問うことをやめないこと。
その姿勢だけは、大切にしていたいと思います。

違和感の正体とは何だったのか?

ここまで書いてきて、ようやく少し見えてきた気がします。
多くの人が感じていた“言葉にならないモヤモヤ”の正体。

それは、模倣されたことそのものではなく、
「模倣された“だけ”のものが、一瞬で、ミーム的に、爆発的に拡散されてしまう」という現象に対する違和感だったのかもしれません。

AIとSNS。
時間も手間もすっ飛ばして、「ただ乗っかっただけ」のものが、オリジナルと同じ熱狂でバズる。
そこに、自分の中の「創作への敬意」や「文脈を大切にしたい気持ち」が、どこかで踏みにじられたような気がしてしまったのです。

これは“ズル”の問題ではなく、「文化的な熱量の軽量化」に直面した初めての体験なのかもしれません。

正解はないと思います。
けれど、ここに何かの“裂け目”があるなら、私たちはそこから目を背けずにいたいと思います。

この記事を書いた人
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