「多様性を尊重しよう」
「誰もが自分らしく生きられる社会に」
「ありのままでいいんだよ」
こうした言葉を、最近はあらゆる場面で耳にするようになりました。
SNS、広告、企業スローガン、研修資料、果ては政治の演説まで。
それ自体は、とても良いことのように思える。
でもふと、立ち止まって考えてしまうんです。
“これって、本当に意味を持って使われているのだろうか?”
「多様性」という言葉には、ある種の“正しさ”が宿ってしまっている。
それは、否定できない正しさ。
だからこそ、どんな場面でも、どんな状況でも、言葉として発された瞬間に“免罪符”になってしまう。
……それって、もはや意味じゃなくて“記号”として使われてない?と思うことがある。
これを私は、“多様性ウェーイ”と呼びたい。
ポジティブで正義っぽくて、でも反対や疑問が言いにくい“空気の正しさ”。
“問いそのものが、空気を壊す行為”にされてしまうのが、このムードの特徴です。
哲学者ウィトゲンシュタインはこう言いました。
「言葉の意味は、その使われ方にある」
本来、“多様性”という言葉は、
マイノリティの声に耳を傾け、社会構造を見直し、
対話を重ねながら少しずつ理解を広げていくような、
時間と忍耐を必要とする実践だったはず。
でも、「その言葉を使ってるからOK」になった瞬間、
言葉が“考える装置”ではなく、“装飾”になってしまう。
問い直せば直すほど、自分の“多様性への向き合い方”の浅さが浮かび上がってきました。
多様性とは、
「違うね」「それは理解できないな」と言える関係性を築くことでもある。
“共感”で上書きするのではなく、
わかり合えないまま共にいることを認めるプロセスが、多様性の本質かもしれない。
でもそれって、面倒だし、疲れるし、カッコよくない。
だからこそ、「多様性ウェーイ」のような、軽くて気持ちのいい空気の方が流行るのかもしれない。
多様性という言葉が、“使えば正義”という免罪符になってしまったら、
それはもう「炎上」と同じ構造だと思います。
それを避けるためには、やっぱり、問い続けるしかない。
「その言葉は、誰のために、何を守っているのか?」
「その言葉の背後に、本当に多様な人の声があるのか?」“ウェーイ”の高揚感に流されず、
静かな疑問を保ち続ける勇気。
それが、令和の多様性ブームを乗りこなすための、小さな知性だと思っています。