饒舌なる静かな多様性論者のブログ

究極の“ウェーイ”は戦争だった──歴史に学ぶノリと集団熱狂の行方

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「ウェーイ」──
本来は、仲間同士で盛り上がる陽気なノリの象徴だったはずのこの言葉。
けれどよくよく考えてみると、歴史の転換点には、いつも“ノリ”や“空気”の暴走が潜んでいたようにも見える。

たとえば、戦争。

それは「悪意」だけではなく、
むしろ「勢い」や「高揚感」や「みんなの気持ちが一つになる感じ」、
つまり、“究極のウェーイ”によって始まってしまったこともあるのではないか。

歴史に見る“ウェーイ”的な出来事

奈良時代:東大寺・大仏建立(国家プロジェクト型ウェーイ)

  • 「仏教の力で国をまとめよう!」
  • 「でっかい大仏作れば加護がある!」
    → 理屈より「でかいことやってる感」で一致団結。
    インフラ崩壊寸前までいったけど、空気の力は止まらなかった。

明治維新~文明開化(近代化ウェーイ)

  • 「欧米すごい!我々も追いつけ追い越せ!」
  • 「廃藩置県!富国強兵!鉄道!電灯!」
    → ノリで制度が大激変。熱狂的改革期。
    功罪どちらも大きかったが、“熱”が社会を駆動していたのは間違いない。

昭和初期:国家総動員体制(破滅型ウェーイ)

  • 「一億火の玉」
  • 「鬼畜米英」
  • 「聖戦」
    → ロジックも感情も全て、“空気”に飲み込まれた。
    ここが“ウェーイの臨界点”、究極のウェーイ=戦争。

ウェーイの構造とは何か?

  1. 意味より感情が先に立つ
     → 「やるべき理由」が曖昧でも「盛り上がってるから」で進んでしまう。
  2. 個人の判断が空気に埋もれる
     → 「みんなそう言ってるから」「反対しにくい空気」が生まれる。
  3. 疑問を差し挟む余地がなくなる
     → 「水を差すな」が支配的になると、考えることすら悪になる。

この3つが揃ったとき、ウェーイはただの盛り上がりではなく、
**“集団の盲進”**へと変化する。

なぜ人は“ウェーイ”に惹かれるのか?

  • 考えなくていいから楽
  • 所属意識が得られる
  • 不安や孤独を感じずにすむ
  • 「今、時代の流れに乗っている」高揚感がある

つまり、“ウェーイ”は理性よりも感情に訴えるコミュニケーション
これは、人間にとって非常に強力な麻薬でもある。

そして、戦争は“意味を問えない最終地点”

戦争が始まると、言葉はスローガンに変わり、
言論は「非国民」「売国奴」として封じられ、
「沈黙」が義務になる。

ここまで来ると、もう言葉が壊れる
意味も文脈も死ぬ。残るのは、空気と命令だけ。

だからこそ、戦争こそが“ウェーイの終着点”なのだと私は思う。

じゃあ、その先はどうしたらいい?

戦後の日本は、“反ウェーイ”で再出発したと言っていい。

  • 言論の自由
  • 政治的多様性
  • 批判的思考
  • 合意形成の重視

でも今、気づけば「ポジティブなスローガン」だけが先行して、
本当の意味が置き去りになる空気もちらほら見える。

  • 「日本を元気に!」
  • 「希望ある未来へ!」
  • 「成長と分配を両立!」

それって……ちょっとウェーイっぽくない?

トランプとプーチン──現代のウェーイ政治の象徴

令和の世界を見渡してみても、**“ノリで支配する政治”**はなくなっていない。

トランプ(アメリカ)

  • 「Make America Great Again」
  • 派手なスローガン、わかりやすい敵(移民、リベラル)、対立の煽り
  • データや事実よりも、「盛り上がってる感」「勝ってる感じ」がすべて

支持者たちは、「トランプが正しい」ではなく、「トランプで盛り上がる空気」に共鳴していた

プーチン(ロシア)

  • 「ロシアの誇りを取り戻す」
  • 「NATOの脅威に立ち向かえ」
  • 「自国のための“特別軍事作戦”」

これもまた、言葉の意味をスローガン化し、空気で支配する典型例
「なぜ?」を問う余地はなく、「今こそ団結」が正義となる。

言葉が壊れると、意味は死ぬ

戦争が始まると、

  • 言葉はスローガンに
  • 思考は「敵か味方か」に
  • 「疑問」は「反逆」に変わる

意味も文脈も失われ、命令と熱狂だけが残る

それが、究極のウェーイ=戦争であり、
言葉の終わり、理性の終わりでもある。

じゃあ、これから私たちはどうすればいい?

戦後の日本は、“反ウェーイ”から始まった。

  • 言論の自由
  • 多様な価値観
  • 批判と検証
  • 合意形成

でも今、「なんとなく盛り上がる空気」によって、また**「問いを出しにくい社会」**がじわじわと戻ってきている気がする。

  • 「希望ある未来へ!」
  • 「成長と分配の好循環」
  • 「誰一人取り残さない社会」

これって、どこかで見たような、“空気だけが正義”なフレーズになっていないか?

おわりに:“盛り上がり”を否定しない。でも、立ち止まれる社会でいたい

ウェーイには力がある。
人をつなげ、行動を促し、希望を感じさせるエネルギーがある。
でもそれが、「異議を唱えにくい空気」になった瞬間、自由は壊れ始める。

戦争という“究極のウェーイ”の果てを知っている私たちだからこそ、
もう一度、“問い直す勇気”と“沈黙を破る声”を持ち続ける必要がある

盛り上がりながら、問いかける。
歩きながら、立ち止まる。

それが、“ポスト・ウェーイ”の時代に生きる知性ではないかと、私は思っています。

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