「ウェーイ」──
本来は、仲間同士で盛り上がる陽気なノリの象徴だったはずのこの言葉。
けれどよくよく考えてみると、歴史の転換点には、いつも“ノリ”や“空気”の暴走が潜んでいたようにも見える。
たとえば、戦争。
それは「悪意」だけではなく、
むしろ「勢い」や「高揚感」や「みんなの気持ちが一つになる感じ」、
つまり、“究極のウェーイ”によって始まってしまったこともあるのではないか。
この3つが揃ったとき、ウェーイはただの盛り上がりではなく、
**“集団の盲進”**へと変化する。
つまり、“ウェーイ”は理性よりも感情に訴えるコミュニケーション。
これは、人間にとって非常に強力な麻薬でもある。
戦争が始まると、言葉はスローガンに変わり、
言論は「非国民」「売国奴」として封じられ、
「沈黙」が義務になる。
ここまで来ると、もう言葉が壊れる。
意味も文脈も死ぬ。残るのは、空気と命令だけ。
だからこそ、戦争こそが“ウェーイの終着点”なのだと私は思う。
戦後の日本は、“反ウェーイ”で再出発したと言っていい。
でも今、気づけば「ポジティブなスローガン」だけが先行して、
本当の意味が置き去りになる空気もちらほら見える。
それって……ちょっとウェーイっぽくない?
令和の世界を見渡してみても、**“ノリで支配する政治”**はなくなっていない。
支持者たちは、「トランプが正しい」ではなく、「トランプで盛り上がる空気」に共鳴していた。
これもまた、言葉の意味をスローガン化し、空気で支配する典型例。
「なぜ?」を問う余地はなく、「今こそ団結」が正義となる。
戦争が始まると、
意味も文脈も失われ、命令と熱狂だけが残る。
それが、究極のウェーイ=戦争であり、
言葉の終わり、理性の終わりでもある。
戦後の日本は、“反ウェーイ”から始まった。
でも今、「なんとなく盛り上がる空気」によって、また**「問いを出しにくい社会」**がじわじわと戻ってきている気がする。
これって、どこかで見たような、“空気だけが正義”なフレーズになっていないか?
ウェーイには力がある。
人をつなげ、行動を促し、希望を感じさせるエネルギーがある。
でもそれが、「異議を唱えにくい空気」になった瞬間、自由は壊れ始める。
戦争という“究極のウェーイ”の果てを知っている私たちだからこそ、
もう一度、“問い直す勇気”と“沈黙を破る声”を持ち続ける必要がある。
盛り上がりながら、問いかける。
歩きながら、立ち止まる。
それが、“ポスト・ウェーイ”の時代に生きる知性ではないかと、私は思っています。