──“逸脱”と“演出”の境界線を考える
『オールスター感謝祭2025春』の放送で、江頭2:50が暴れ、永野芽郁さんが涙を流す──その瞬間は、確かに“事件”でした。
TVerの見逃し配信では、江頭パートがまるごとカット。あの場面を知る手段は、いまやSNSの断片と、視聴者の記憶、そして非公式なネット動画の中にしか存在しません。
SNS上では「エガちゃんやりすぎ」「芽郁ちゃん泣いてた」→「全カットは当然」という声がある一方、「一番見たかったとこが消えてる」「なんで?」というモヤモヤも拡がっていました。
ここで一度、ちょっと冷静に考えてみませんか。
まず、永野芽郁さんが本気で怖かったのなら、涙を流したのは当然。そこに疑義を挟むつもりはありません。江頭さんの振る舞いが過剰だったかどうかも、議論の余地があるでしょう。
でも一方で、あの場にいたのは“プロ”です。
そもそも──芸能人って、そういう“何が起きるかわからない現場”込みで、注目を浴びて、報酬を得る存在じゃないの?
実は、ネットニュースで話題になるまで、僕は「永野芽郁」という名前をちゃんと知りませんでした。
(有名だったんですか?いや、ホントに。本当に知らなかったんですよ。)
でもあの夜、江頭2:50との“あの場面”をきっかけに、一発で記憶に刻み込まれたんです。
それって、良くも悪くも──**「芸能の本質」**なんじゃないでしょうか?
永野芽郁さんが本気で怖かったなら泣いて当然。そこを否定する気は一切ありません。
でもそれを含めて、“見られる立場”としての宿命もあったんじゃないか。
もちろん、本気で怖かったなら泣いてもいい。それも自然な感情だと思うし、そこを軽視するつもりはありません。
江頭2:50もプロ。
永野芽郁もプロ。
止めに入った芸人たちもプロ。
あとでテレビやネット越しにコメントを挟んだ人たちも、みんなプロ。
つまり、何が起きてもおかしくない“祝祭の場”で「何かが起きた」という意味では、むしろある種の予定調和すら感じるんです。
バラエティー番組に暴れん坊が突然現れ、スタジオが一瞬カオスになる。
その混沌の中で人々は驚き、笑い、ある者は涙を流す。
それは、テレビのなかに不意に現れる“非日常”だった。
タガが外れたような祝祭。
ルールも序列もいったん無効になって、すべてがひっくり返る。
そんな空間は、まるで一夜限りのカーニバルのようでした。
文学理論家バフチンは、社会のルールが一時的に無効になる祝祭を「カーニバル」と呼びました。
あの夜、テレビの中でほんの一瞬だけ出現したその空間を、編集という制度が“消し去った”のです。
そしてプロである以上、それは覚悟のうえだったはずです。
江頭さんが暴れるのも“想定外”ではなく、“想定内の想定外ハプニング”。
ここは繰り返して強調しますが「あの江頭2:50」さんですよ。
エガちゃんは“そういうもん”だろう?
永野芽郁さんが反応することも、視聴者の目にどう映るかも、全部含めて「番組という商品」だった。
だって、それでこそ“話題になる”。バズる。名前が拡がる。そして報酬を得る。
今回の件で、江頭2:50も、永野芽郁も、周りの芸能人も、しっかり“話題の渦”の中心に立てた。
そう考えると、全員、少なからず“おいしかった”はずなんです。
SNSでは「女優を泣かせたらアウト」「不快な人がいたら即NG」という“0か100か”のジャッジが目立ちます。でも、リアルな感情ってもっと曖昧で、多層的じゃないですか?
でも、涙を流したという“結果”だけで、それを一方的に“失敗”と切り捨てるのは違う。
本気で泣いたからこそ、それが“伝わった”とも言えるんじゃないか?
たとえば──
「怖かったけど、あとから笑えた」とか、
「不快だったけど、エンタメとして成立してた」とか、
「びっくりしたけど、あの空気込みでよかった」とか。
視聴者それぞれが感じたことに意味があるはずなのに、今回のTVerの“全カット”は、その多様な感情の余地を根こそぎ奪ってしまった。
まるで、祝祭が終わったあとの早朝に、
町を一気に元通りに戻すような作業。
「今のは無かったことにしてね」って。
たぶん江頭さんにとっても、永野さんにとっても、あの一瞬は“事故”だったかもしれません。
でも、“語られる”ことによって、それは“事件”になった。
SNSで名前が拡散され、キャラが強化され、立ち位置が再確認される。
つまり──全員が“おいしかった”んです。
視聴者も含めて。
見た。反応した。語った。
その時点で、僕たちは全員このエンタメの“共犯者”なんです。
泣いたことを悪いとは言わない。でも、泣いた=すべてがアウト、という単純な構図には違和感が残る。
暴れて泣かせたことを正しいとも思わない。
でも、その“暴れたという事実”ごと消してしまう対応は、逆に不誠実では?
そもそも、テレビって“意味の共同制作”でしょ?
視聴者が「どう感じたか」に委ねることも、メディアの役割のはず。
なのに今回は、そこをすっ飛ばして、
「これは見せないほうがいいから」で、すべて編集されてしまった。
まるで、舞台の幕が下りる前に、
演者ごとセットを撤去してしまったような感覚。
──結局、僕たちは“置いてけぼり”だった。
📌そしてもう一つ──
“観られること”のリスクとリターンを引き受けるのが、プロという存在だということ。
それが、“プロ”と“観客”でつくる、いちばん健やかなエンタメなんじゃないかと思うのです。