饒舌なる静かな多様性論者のブログ

「欧米には主食がない?」から考える、日本人と“ごはん”のこれから

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〜米の高騰・炭水化物ダイエット・そして“主食”という概念への問い〜

最近、「欧米には主食という概念がないらしい」と語るYouTube動画を観ました。
最初は「いやいや、パンやパスタがあるじゃない」と思ったのですが、実際に海外の友人に聞いてみると、「主食って…そういうふうに考えたことないなぁ」と、少し拍子抜けするような返答が返ってきました。

日本人の感覚だと、洋食スタイルでも、パンやパスタが“中心”にあり、そこにおかずが添えられているようなイメージですよね。

もちろん、欧米にもパンを中心にした食事や、じゃがいも・パスタをメインにした料理はたくさんあります。
でも、日本のように「主食=ごはん・パン・麺」などと固定的に語られ、それを前提に献立を組み立てるという感覚は、どうやらあまり一般的ではないようなのです。

そもそも、「主食」という日本語にぴったり対応する英単語が存在しません。
“Staple food” という言葉はありますが、これはどちらかというと栄養学的な分類に近く、「主菜」「副菜」との構成セットで考えるような感覚とは少しズレがあります。

私たちが当たり前に信じてきた「主食」という存在。


それは文化の問題でもあり、実はもっと深く、地理と歴史の必然の中で生まれてきた価値観なのかもしれません。

なぜ日本では“ごはん”が主食になったのか?

日本では古くから「ごはんを中心に献立を立てる」ことが基本でした。
白いごはん、味噌汁、焼き魚と漬物。卵と焼き海苔がついたら泣いて喜ぶ。
さらに納豆がつくと天にも登る気持ちになります。
いわゆる“ザ・日本の朝ごはん”です。

学校給食も「主食・主菜・副菜」が基本で、「ちゃんとごはん食べないと力が出ないよ」と言われながら育ってきた世代も多いでしょう。

でも、なぜ“ごはん”だったのでしょうか?

その理由のひとつは、日本の気候と地形にあります。
日本列島は雨が多く湿潤で、山がちで耕地が狭いという特徴があります。
そんな環境で「少ない土地でも多くの食料を得られる作物」として、水田稲作=米作りが最適解だったのです。

米は手間も水もかかりますが、単位面積あたりの収量が非常に高い作物です。
小麦が2〜4トン/ヘクタール程度なのに対し、米は5〜7トンほどの収穫が見込めます。
つまり、狭くて水が豊富な日本では、米作りが地理的にも極めて合理的だったのです。

さらに、稲作には水路整備や共同作業が必要です。
それがやがて村落共同体や年中行事、神事・お祭りといった日本文化の土台とも結びつき、
ごはんは単なる「食べ物」ではなく、「社会をつなぐ基盤」にまで育っていきました。

欧米で“主食”が根付きにくかった地理的な背景

一方、欧米では日本ほど“主食”という言葉や概念が強く定着しませんでした。
それには、彼らの土地や気候、生産方式が大きく関係しています。

ヨーロッパや中東は乾燥した地域が多く、水田のように大量の水を使う稲作には不向きでした。
代わりに育てられたのが小麦や大麦などの乾燥に強い作物。しかし小麦は、米に比べて収量が低く、安定もしにくいという性質があります。

そのため、米のように「毎日これを中心に食べる」といった固定的な食習慣が生まれにくく、
パンやじゃがいも、豆、肉などを地域や季節、生活様式に応じて柔軟に組み合わせる食文化が育まれていったのです。

つまり、「欧米には主食がない」のではなく、
**“主食が前提になるほどの地理的・社会的条件が揃っていなかった”**というほうが、より正確かもしれません。

いま、“ごはん”との付き合い方が変わってきている

とはいえ、私たちの暮らしも大きく変わってきました。
私は今、一人暮らしをしていて、食事も完全に自己管理です。
この機会に軽く炭水化物ダイエットを始めたところ、肉と野菜を中心にして、ごはんは「おにぎり半分」や「一口だけ」という日も増えました。

最初は「これで足りるのかな」と不安でしたが、案外お腹は満たされ、身体も軽く感じます。
ただ、疲れた日や「ちゃんと食べたい」と思う日は、炊きたての白ごはんに味噌汁を合わせて“フル和食”。
そんなとき、「あぁ、自分の中に“ごはんで整う感覚”はまだあるんだな」と、ちょっとホッとしたりします

米の高騰と「主食を選ぶ時代」

最近では、米の価格がじわじわ上昇しています。
天候不順、肥料代の高騰、生産者の高齢化……さまざまな要因が重なり、私の近所のスーパーでも「いつの間にか500円高くなってる?」と感じることが増えました。

そんな中で、「ごはんは毎日たっぷり食べるもの」という常識にも、変化の兆しが見えてきます。
たくさん食べるのではなく、「本当に食べたい日に、きちんと味わって食べる」。
主食とは“義務”ではなく、“選択”でいい――そんな時代に、私たちは少しずつ移行しているのかもしれません。

「ごはんを減らす」ことへのちょっとした葛藤

実は私、知り合いに米農家の方がいます。
真面目に、丁寧に、誇りを持ってお米を育てている人です。
だからこそ、「最近、ごはん少なめなんだよね」と言う自分に、ちょっと申し訳なさを感じる瞬間もあります。

でも、それは農家さんの努力を否定しているわけではありません。
変わったのは「暮らし」や「身体」であって、「ごはんを大切に思う気持ち」そのものではない。
むしろ、少なくなったからこそ、食べるときには心を込めて、感謝して味わうようになった気がしています。

年齢とともに変わる、炭水化物との距離感

もうひとつ感じるのは、年齢による変化です。
若い頃はどんぶりごはん2杯でも平気だったのに、今では少し多く食べるだけでお腹が重く感じたり、眠くなったり。
健康診断で「血糖値に注意」と言われたことをきっかけに、自然とごはんの量を見直すようになりました。

「炭水化物=悪」では決してありません。
でも、今の自分の身体や生活に合った量・タイミングで取り入れることが、なにより大事だと実感しています。

まとめ:「主食」は“前提”じゃなく、“問い直す価値がある選択肢”

「欧米には主食がない」という話に触れたとき、最初は驚きました。
でも、日本のごはん文化をたどってみると、それは地理・歴史・社会が組み合わさった“合理的な選択”だったことがわかります。

そして今、その「合理性の条件」が変わりつつあるのなら、
私たちの“主食観”もまた、少しずつ問い直されていいのだと思います。

「主食だから、食べなきゃ」ではなく、
「ごはんを食べたい日には、心から味わって食べる」――
そんな“選択としてのごはん”が、これからの私たちにとって、ちょうどいい距離感なのかもしれません。

✨ 最後にひとこと

ごはんは、今でも大好きです。
でも、好きだからこそ、その価値を問い直しながら、
これからも丁寧に付き合っていけたらいいなと思います。

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