3月29日に放送された『オールスター感謝祭’25春』。
毎年春と秋に放送される恒例の大型特番で、今年も豪華芸能人が集結し、クイズやアトラクションで盛り上がりを見せていました。
しかし、番組の終盤、突然スタジオの空気が変わりました。
そう、江頭2:50さんの登場です。
彼はスタジオを駆け回り、出演者に絡みながら自由奔放に暴れました。特に、女優の永野芽郁さんを追いかける場面では、彼女が涙を流す様子まで放送されました。
この瞬間、SNSは大いに沸き立ちました。
「エガちゃんキター!」「久々に地上波で見た!」という声と同時に、
「ちょっとやりすぎじゃない?」「芽郁ちゃん泣いてる…大丈夫?」という心配の声も見られました。
ところが、翌日TVerで配信された見逃し配信では、江頭さんの出演シーンがすべてカットされていたのです。
報道によれば、江頭さんは後半で着ぐるみを脱ぎ捨て、上半身裸で出演者に接近。永野さんが涙を流したという事実もありました。
それを「やりすぎだった」と感じる人がいるのは、当然のことだと思います。
芸として許容されない、と感じた人がいたなら、その感覚もまた正しい。
現代のテレビが厳しいコンプライアンス基準の中で放送を作っていることも理解できます。スポンサー対応、視聴者からの苦情、炎上リスク。どれも軽視できません。永野さんが本当に怖いと感じたのならば、その感情は何よりも尊重されるべきです。
だからこそ、「カットせざるを得なかった」背景も想像できます。
でも――
それでも、“なかったことにする”という判断は、やはり疑問を抱かざるを得ません。
江頭2:50の芸風は、時代にそぐわなくなったのかもしれない。
だが、だからといって、その存在を“なかったこと”にするのは、この社会が積み重ねてきた文脈の更新を怠る態度ではないでしょうか。
僕たちは今、エンタメという共同体において、「どこまでが芸で、どこからが暴力か」を再定義する場面にるいと思います。
その対話に参加することを拒否し、「全カット」で逃げることは、表現という文化装置に対する自己否定であり、それこそが、放送倫理の暴走ではないでしょうか。
「江頭2:50が暴れた」という事実は、あの場にいた誰もが見ていたはずです。
それが放送後、完全に“存在しなかった”ように扱われると、視聴者はただ「置いてけぼり」にされた感覚になります。
どれも正しいようでいて、どこか一方的です。
「どう感じるか」は、本来、視聴者一人ひとりに委ねられるべきではなかったでしょうか。
江頭さんの芸風が「逸脱」だということは、誰もが知っています。
それを理解したうえで番組に呼び、そして後からその存在ごと消してしまう――
それはあまりにもテレビ局の“都合”が強すぎるように見えてしまいます。
江頭さんがああいうキャラクターであることは、誰もが知っています。そしてTBSも、そのうえで出演を依頼したはずです。であれば、暴れたり、脱いだりするのは想定内。それが“放送事故”になるのなら、最初から起用すべきではなかった。
編集で“無かったこと”にするのは、視聴者を守るためでも、タレントを守るためでもなく、ただ自分たち(テレビ局)を守るためにしか見えません。
しかも、それはとても姑息なやり方に思えるのです。
もちろん、「怖かった」「不快だった」と感じた視聴者の声は大切です。
そうした感情は無視されるべきではありません。
でも一方で、「笑った」「見たかった」という声も、同じように尊重されるべきではないでしょうか。
江頭さんの芸には、常に“ギリギリ”がありました。
そのギリギリを楽しむ文化は、もう時代にそぐわないのかもしれません。
それでも、テレビが「予測不能な事件」を排除し、完璧に整った安心安全なコンテンツだけを提供する場になってしまったとしたら――
それはそれで、“多様性”を失っているようにも思えるのです。
そもそも、「江頭2:50」という芸人に対して、いまさら「やりすぎだった」「怖かった」という反応が出ること自体、少しズレている気がします。
ネットを見ていると、「やっぱり江頭はやりすぎだ」「泣かせたのはアウト」って声もある。
それもわかる。嫌な気持ちになった人がいるなら、それは否定できない。
でも、「彼がいた」って事実を、まるごと消してしまうのは違うと思う。
暴れたとしても、失敗だったとしても、それが「放送された」という事実は残すべきだった。
それを観たうえで、視聴者に判断させるべきだったんじゃないか。
テレビって、そんなに“安全第一”じゃないとダメなの?
ちょっとでも揺らぎがあったら、編集で全部消さなきゃいけないの?
僕は、江頭があの場に“いた”という事実をちゃんと観たかった。
そして自分で、「これはどうなんだろう?」って考えたかった。
彼の芸風は、常に“逸脱”の中にあります。だからこそ、規制の強いテレビから徐々に姿を消し、YouTubeという新天地で多くのファンを得た。そこには“過激だけど信頼できる”“破天荒だけど筋が通っている”という、彼独自のキャラクターがあったからです。
だから今回の件、テレビが彼を再び地上波に呼び戻しながらも、その「過激さ」だけを切り捨ててしまったことに、視聴者は落胆しているんだと思います。
空が青い理由を聞かれたら、「そういうもんだ」と答える。
ポストが赤い理由を聞かれても、「昔からそうなんだよ」と答える。
江頭が暴れるのも、「エガちゃんはそういうもんだろう」でいいじゃないか。
その“当たり前”を、あえて無かったことにしてしまうのが、今回の「全カット」だったと思います。
哲学者ヴィトゲンシュタインはこう言いました。
「言葉の意味とは、その使われ方である」
これを芸人・江頭2:50にあてはめてみましょう。
江頭さんがテレビで暴れる。服を脱ぎ、走り回り、タレントを驚かせ、スタジオを混沌と化す。
これは「事故」ではなく、「そういうキャラクター」としての慣習的了解の中での出来事です。つまり、あの場面は“エガちゃん”という文法の一つだった。
その“文法”を知っている人にとって、彼の登場は「またか」でもあり「待ってました」でもあります。そこにはルールに従った逸脱という、ある種の美学があります。
ヴィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」とは、状況に応じた意味のルールです。
たとえば、「チェックメイト」という言葉は、チェスというゲームの中でしか意味を持ちません。
同じように、「江頭が暴れた」という出来事は、“地上波バラエティ”というゲームの中で初めて意味を持ちます。
このすべてが揃ってこそ、「エガちゃん」が成立するんです。
それをまるごと“無かったこと”にするというのは、言語ゲームのルールを捻じ曲げ、「不成立」を後から押しつける行為なのです。
TVerでの“全カット”は、まさに「後出しの意味操作」です。
ヴィトゲンシュタイン的に言えば、表現の文脈を失わせ、行為の意味を曖昧にしてしまう。
江頭さんの「逸脱」には、いつもルールがあった。
にもかかわらず、その文脈ごと“抹消”されてしまったら、
そこにあった意味の共有(ライフワールド)は断絶されてしまいます。
ヴィトゲンシュタインにとって、意味は固定されたものではなく、使い手たちの間で共有される関係性です。
テレビ番組における“出来事”も、それを視聴者がどう受け取るかによって初めて完成する。
視聴者は**ただの受け手ではなく、「意味の共同制作者」**です。
だから、本来ならば:
という複数の感情が共存し、それぞれが“意味”として成立するはずでした。
にもかかわらず、“全カット”された時点で、視聴者はその共同性から排除されてしまったのです。
江頭2:50がその場に「いた」という事実、
そして彼が“いつものように暴れた”という事実は、
それ自体がすでに一つの“言語ゲーム”として成立していたのです。
それを後から「無かったこと」にするというのは、
ヴィトゲンシュタインが最も嫌った**“言葉だけの形式主義”**に他なりません。
意味とは、生きた関係の中にある。
だからこそ、この“カット”の違和感は、
「意味の断絶」への本能的な抗議だったのではないでしょうか。
そもそも、江頭2:50に“まとも”を求めること自体が間違っている。
彼が場を荒らすのは仕様だ。
笑うか、ドン引きするか、ザワザワするか。
それを楽しむのが、エガちゃんの芸なんだ。
暴れて、困らせて、それでもどこか憎めない。
江頭2:50という芸人は、そんな矛盾を内包した存在です。
それをどう受け止めるかは、観た人が自分で考えるべきことでした。
だからこそ、TVerの“全カット”には、編集による「情報の独占」のような窮屈さを感じてしまいました。
誰かにとっては「不快」でも、別の誰かにとっては「面白い」。
そんな多様な感情を同時に許容できる場であってほしい――
それが、今テレビに求められている「誠実さ」ではないでしょうか。
だからTVerで全カットって、本当に意味がわからない。
彼の芸風をわかって呼んだくせに、問題が起きたら消す。
それって「自己否定」だし、「視聴者軽視」でもある。
そりゃネットで「地上波に出したテレビ局が悪い」って言われても仕方ない。
江頭を“事故”として処理するのは、テレビの“限界”を露呈したようにも感じた。
見逃し配信というのは、編集で再構成される場です。もちろん、地上波でのトラブルを修正したり、不要なノイズをカットしたりする必要もあります。
でも、その編集が“過剰”になると、表現そのものをねじ曲げてしまう。特に今回のように、出演者1人の存在自体が“無かったこと”にされるのは、どうしても不自然です。
誠実なテレビであってほしい。
そして、視聴者がちゃんと考えられる余地を残してほしい。
江頭2:50という芸人が暴れる姿を観て、「怖い」と感じる人がいてもいい。でも、「面白い」と思う人の感情も、ちゃんと残してほしい。
それが本来、テレビの果たすべき「多様性」なんじゃないかと、僕は思います。
もし江頭2:50さんの芸風が、もう令和にはそぐわないと判断されるなら――
それも一つの見識だと思います。
でも、それならば最初から起用しないという選択肢もあったはずです。
呼んでおいて、暴れたら消す。
それは視聴者に対しても、出演者に対しても、そして芸人本人に対しても不誠実ではないかと思えてなりません。
「生放送だからこそ起こる“事件”」を、僕たちは見たかった。
見たうえで、自分の感性で考えたかった。
それすら許されない編集が、テレビの未来にとって健全だとは、僕には思えません。
最後に、ふと思うのです。
ひょっとしてTBSは、ここまで含めて**“計算済み”だった**のではないか。
江頭2:50をあの場に呼び、予想通り暴れてもらい、
その姿をリアルタイムで放送し、SNSをざわつかせ、
翌日の見逃し配信ではその部分を“まるごと削除”する。
それによって、視聴者の間に「あれはなんだったんだ?」という違和感を残す。
「見たかった」「カットされてる」「不自然すぎる」──そんな声が飛び交う。
その“ざわめき”こそが、今のテレビに残された最後のライブ感なのだとしたら──
全カットという編集そのものが“ネタ”であり、“仕掛け”だったのだとしたら──
これはある意味で、メタ構造的なエンタメになっていたのかもしれません。
つまり、江頭さんがスタジオで演じた“逸脱”と、
TBSがその“逸脱を抹消する”という行為自体が、
一つの作品として成立していた可能性です。
もしそうなら、TBSはしたたかです。
そして僕たちは、そのメディアゲームに巻き込まれた観客だったのかもしれません。
という、あえてのメタ的な視点も入れておきます。