饒舌なる静かな多様性論者のブログ

生理用ナプキンを「無料で配るのは違くない?」と思った男性としての本音と、そこから考えた“バランス感覚”の話

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ニュースで、生理用ナプキンをトイレに常設して「無料で配布するべきだ」という議論を見たとき、正直、僕は「いや、ただで配るのは違くない?」と思った。

“それって甘えじゃないの?”と感じた自分がいた——でも、話はそれだけじゃなかった

これって、男性としての本音なんじゃないかと思う。
たとえば、髭剃りや靴下の替えが必要になったとしても、それを市役所や駅のトイレで無料でもらえる社会ではない。
ナプキンもある意味「個人で準備すべきもの」という認識があったから、最初は「それって依存しすぎなんじゃ?」という違和感があった。

でも――。

よくよく考えてみたら、生理って「自分ではコントロールできないもの」なんだよな。

生理用ナプキンを「ただで配るのは違くない?」と思った男の話

生理用ナプキンを「ただで配るべきだ」っていう話をニュースで見たとき、
正直に言って、僕の第一声はこうだった。

「いや、それはちょっと違くない?」

なんというか、トイレットペーパーじゃないんだし。
全部無料にしてたらキリがないし。
そんな感覚が、頭の中にモヤモヤっと浮かんだんです。

でも、ふと思ったんですよ。

──あれ、オレって一応、妻の夫であり、娘の父じゃなかったっけ?
(しかもその娘、もうすぐ生理が始まるかもしれないお年頃…)

そんな立場の人間が、「自己管理でしょ」とか「買えばいいじゃん」とか、
簡単に言っちゃってていいのか…?

そんな違和感から、少しずつ自分の中の“当たり前”が崩れてきた話です。

「トイレットペーパー」はあって当然。でもナプキンは?

僕たち男性は、公衆トイレでトイレットペーパーがなかったら「なんで無いんだよ!」ってなると思う。
でも女性にとって、生理が突然きたときにナプキンがない状況は、それ以上に困ることなんだと気づかされた。

しかも、ナプキンは毎月かかるコストでもある。人によっては生理痛や体調不良も伴う。
「それくらい自分で用意しろよ」と思っていたけれど、それは“想像力の欠如”だったかもしれない。

男性だって、突然の“生理的トラブル”はある

生理は女性だけのものだけど、「生理的に困る瞬間」って、男にもあるっちゃあるんですよね。

たとえば…

  • 急に下痢になって冷や汗かきながらトイレに駆け込むとき。
  • 出先でトイレットペーパーがないときに絶望するあの瞬間。
  • 白いパンツに、思いのほか主張の強い“名残”が残ってて、慌てて手洗いした思春期の記憶。
  • 「なんで今日に限ってこんなに汗かくの!?」という灼熱地獄の満員電車。

ね?多少は“共感のタネ”があるわけです。

もちろん、生理とは違うし、周期もないし、ホルモンバランスによる不調もない。
でも、「コントロールできない身体の反応に困る」って意味では、ちょっとだけ重なる部分もある。

そう考えたら、「あ、女性が生理で困ってるって、こういう“もっと大変なやつ”なのかもな…」って、少しだけ想像できるようになったんです。

それでも「全部無料にしろ」とは思わない

ただ、僕の中でいまだに残っている感覚もある。
「じゃあどこでも大量に配るのか?」「予算は?」「悪用されない?」
そういう現実的な不安も確かにある。

だからこそ、**「必要な場所に、最低限の非常用として備える」**という落としどころがあるんじゃないかと思う。

災害用の水や食料の備蓄と同じように、
「誰かが困ったときに助けになる備え」があることで、社会全体がちょっと優しくなる。
それくらいの感覚でちょうどいいんじゃないだろうか。

“男だからわからない”で終わらせずに

たぶん、こういう議論って「俺には関係ない」「女性のことだし」でスルーしがちなんだけど、
実は僕ら男性が無関心でいることこそが、偏った社会をつくってしまうのかもしれない。

映画『パッドマン』を例に出している人がいたけど、あれはインドの話であっても、日本にも通じるところがある。
理解しきれなくても、想像しようとすること。
それが“バランス感覚”なのかなと、今回初めて少しだけ思えた。

「ただで配るのは違くない?」という気持ち、否定しなくていいと思う。
でもそれを出発点に、「じゃあどうしたらいい?」と考えることで、
お互いにとって納得できる社会のカタチに近づけるんじゃないか――そんな風に感じた出来事でした。

批判的な声にも耳を傾けながら、“想像の壁”を乗り越える

もちろん、こういった話にはさまざまな声があります。
「ナプキンとトイレットペーパーは用途も性質も違う」「中途半端な理解で語るべきではない」
──どれももっともな指摘です。

でも僕は、「想像がつきにくいことがある」こと自体が問題だとは思っていません。
それを責めたり、揶揄したりするのではなく、「だからこそ話し合おうよ」という姿勢こそ大切だと感じています。

当事者でなければ、想像はどうしても不完全です。
でも、それを理由に“無関心”でい続けることが、社会を不公平なままにしてしまう。

「甘えじゃないの?」と思ってしまった自分も、
「生理なんて大したことないでしょ」と無意識に思っていた過去の自分も、
今ではちょっとだけ、考えが変わりました。

“非常用だけ”じゃ足りないという声にも、まずは応えよう

「非常用の備えだけじゃ現実のニーズを満たせない」という意見もあります。
これも本当にその通りだと思います。

でもまずは、「非常時にすら用意されていない」という現状から、少しずつ変えていくこと。
その第一歩として、“困った人が助かる仕組み”を少しずつ社会に浸透させていくこと。

それが、僕たちができる「バランス感覚」のひとつじゃないかと思うんです。

最後に

誰もが毎日、完全な理解を持って生きているわけじゃない。
でも、理解しようとすること、ちょっと想像してみること。
それが「優しさ」であり、「社会としての成熟」なのかもしれません。

生理用ナプキンを「無料で配るのは違くない?」と思った一人の男性として、
今回の議論を通して、少しだけ“誰かの当たり前”に近づけた気がしています。

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