はじめに:「パートナーシップ」という言葉の心地よさの裏で
「結婚なんて形式にすぎない」
「法的に守られる関係があれば十分」
「結婚はパートナーシップの一形態でしかない」
──こんな価値観が、今ではあたりまえのように語られるようになりました。
実際、自治体の「パートナーシップ制度」も広がり、同性カップルや事実婚を選ぶ人々の法的保護が整いつつあります。
もちろん、こうした動き自体を否定する気はまったくありません。
多様な関係性が尊重されることは、成熟した社会の証でもあります。
でも、それと同時に私は、こうも思うのです。
「日本の結婚制度まで、“ただの契約”や“生活の便宜”という枠組みに収めてしまっていいのだろうか?」
結婚とパートナーシップは、一見似ていますが、その制度的な設計思想と社会的な役割は大きく異なります。
結婚制度 | パートナーシップ制度 | |
---|---|---|
法的根拠 | 民法・戸籍法に基づく正式な婚姻関係 | 条例などによる行政的認定(※法的拘束力は限定的) |
目的 | 家族の形成、世代継承、社会的安定装置 | 二人の関係性の法的・社会的承認 |
影響範囲 | 税制、相続、扶養、親権、介護、年金など多岐にわたる | 医療同意や住居など、一部の便益に限定(※現時点) |
社会的役割 | 国家の基盤としての「家族単位の形成」 | 個々の自由な関係性の尊重と保護 |
日本の結婚制度には、単なる“契約関係”を超えた社会的な機能が備わっています。
つまり、結婚は「愛し合う二人の契約」であると同時に、
“社会全体を支える枠組み”でもあったということ。
たとえば、こんな問いを考えてみてください。
日本では、こういった社会課題を「家族=結婚」という仕組みによって内包してきました。
それが、良くも悪くも日本社会の特徴です。
一方で、「家」に過度に依存してきた結果、
そのしわ寄せが特定の立場──とくに妻や母親、嫁という役割に集中してきたのも事実です。
こうした価値観は、共働きが当たり前の現代において、制度としても文化としてももう限界を迎えています。
だからといって、「家」という単位そのものを放棄すべきだとは思いません。
むしろ、家というつながりがあるからこそ守られてきた安心や支え合いがあるのも事実です。
必要なのは、次のような視点の転換です。
「家」が問題なのではなく、
「家のあり方」が古いまま放置されていたことが問題だったのです。
私は、パートナーシップ制度が選べるようになることに反対ではありません。
ただし、「選べる社会」と「なんでもOKの無秩序な制度」は別です。
結婚制度の“中心軸”を見失ってしまえば、
「誰が子育てを支えるのか」「誰が地域を守るのか」という問いも、
答えのないまま、宙ぶらりんになってしまうかもしれません。
結婚は、ただの契約でよかったのか?
それとも、“社会の基盤”としての役割が、やはり必要なのか?
この問いは、思想の違いというよりも、社会設計の問題です。
日本という国が、
その土台を決める大きな分かれ道に、私たちは立っているのだと思います。
私は、「結婚はパートナーシップでいい」と割り切れるほど、楽観的にはなれません。
でも、「今の結婚制度が完璧だ」と思っているわけでもありません。
むしろ、自分の中でも揺れています。
それでもやっぱり、私は思います。
“変わる自由”と“変わらない自由”が、同じテーブルに並んでいる社会こそが、本当の多様性だと。
結婚制度の見直しは、単なる制度改革ではなく、
「私たちは、どんな社会をつくりたいのか?」という問いそのものです。
だからこそ軽々しく、
「パートナーシップにすればいい」
「好きな人と暮らせればそれでいい」
とは言いたくない。
この国が築いてきた「家」というかたちの価値と、
その中にあった矛盾や偏り──
それらを見つめながら、丁寧に、制度と文化を進化させていくこと。
それが今、私たちに求められている姿勢だと信じています。