――「自由」の名のもとに揃えられる社会への違和感
「多様性を尊重しましょう」
「すべての人が自分らしく生きられる社会へ」
──そんな言葉を聞くたびに、心のどこかでふと、居心地の悪さを感じることがありました。
それは決して、多様性そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、**「違う意見があっていい」「全員が同じじゃなくていい」**という感覚は、私自身も大切にしてきた価値観です。
けれど近年の言論空間では、
「多様性を認めよ」という主張が、
「多様性のない一色の正義」に変わっているように見える瞬間があるのです。
多様性とは、本来、
ところが現実には──
「それは差別だよ」
「そんな考え方は時代遅れ」
「あなたのその沈黙が誰かを傷つけている」
と、異なる意見を持つ者が“排除される側”に追いやられる現象が起きています。
リベラルが掲げる「個人の尊重」や「自由な選択」は、非常に重要な価値です。
でも、それが**「そう考えない人は間違っている」という形で伝わった瞬間、
それはもう一つの同調圧力**になる。
「自由の名のもとに、価値観を揃えようとする」
──そんな**“多様性を押し付ける多様性のなさ”**が、静かに社会を覆っていないでしょうか。
欧米では「異なる価値観がぶつかり合い、議論を通じて折り合いをつける」文化があります。
それに対して日本は、八百万の神に象徴されるように、あいまいさや共存を前提として社会が形成されてきました。
たとえば:
これは決して劣ったものではなく、“声にならないものも、ちゃんと存在している”という包容力に近いと思っていま “静かに違和感を感じる人”が排除される社会でいいのか?
たとえば、こんな人たち。
彼らのような“声にならない声”が、
今、「それって差別じゃない?」と一方的に裁かれる傾向がある。
でも、本当の多様性って、そういう違和感や迷いも許容することじゃないのか?
ここまで「日本の風土に根ざした制度の意義」を書いてきましたが、
誤解しないでほしいのは、私は決して“今の日本社会に何の問題もない”と思っているわけではないということです。
むしろ、日常の中で日本的な価値観にイライラしたことは、何度もあります。
こういう時、自分の中の「個人としての自立した感覚」が、
日本社会の“空気の圧力”とぶつかって、しんどくなるんですよね。
私は、欧米的な“多様性の正義”にも違和感を覚えるし、
日本的な“調和のプレッシャー”にも不満があります。
どちらかが正しくて、どちらかが悪い──という話じゃなくて、
**「どちらも、行き過ぎるとしんどい」**っていうのが、ほんと率直な実感です。
だからこそ私は、
「変わる自由」と「変わらない自由」が、
どちらも同じテーブルに並んでいる社会がいいなって思うんです。
「どちらかになれ」と言われるのではなく、
その中間にある、揺れている気持ちにも場所があること。
それこそが、ほんとうの多様性なんじゃないかな。
もし本当に多様性を大切にしたいのなら、
すべての人に「あなたも正しい」と言うことは難しくても、
少なくとも、こう言える社会であってほしい。
「あなたはそう考えるんですね。私は違うけれど、否定しません。」
対立しなくても共存はできる。
それが、日本の社会が育んできた静かな強さであり、
そして、これからの多様性社会に必要な成熟ではないでしょうか。
多様性という言葉が、誰かの“正しさ”を押しつけるための道具になっていないか。
「正義」の衣をまとった排除が、誰かを黙らせていないか。
そんな問いを、自分自身にも向けながら、
この言葉を、静かにここに置いておきます。
多様性を押し付ける多様性のなさ