饒舌なる静かな多様性論者のブログ

多様性を押し付ける“多様性のなさ”について考える

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――「自由」の名のもとに揃えられる社会への違和感

はじめに:「多様性が大切」なのに、なぜ息苦しい?

「多様性を尊重しましょう」
「すべての人が自分らしく生きられる社会へ」
──そんな言葉を聞くたびに、心のどこかでふと、居心地の悪さを感じることがありました。

それは決して、多様性そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、**「違う意見があっていい」「全員が同じじゃなくていい」**という感覚は、私自身も大切にしてきた価値観です。

けれど近年の言論空間では、
「多様性を認めよ」という主張が、
「多様性のない一色の正義」に変わっているように見える瞬間があるのです。

「多様性」とは“異なる価値観が共存できる状態”のはずなのに

多様性とは、本来、

  • 異なる考え方
  • 異なる生き方
  • 異なる背景
    が、互いを否定せずに存在できる状態を意味するはずです。

ところが現実には──

「それは差別だよ」
「そんな考え方は時代遅れ」
「あなたのその沈黙が誰かを傷つけている」

と、異なる意見を持つ者が“排除される側”に追いやられる現象が起きています。

“リベラルの正義”が持つ、もう一つの顔

リベラルが掲げる「個人の尊重」や「自由な選択」は、非常に重要な価値です。
でも、それが**「そう考えない人は間違っている」という形で伝わった瞬間、
それは
もう一つの同調圧力**になる。

「自由の名のもとに、価値観を揃えようとする」
──そんな**“多様性を押し付ける多様性のなさ”**が、静かに社会を覆っていないでしょうか。

日本的な多様性:声より“空気”で共存してきた社会

欧米では「異なる価値観がぶつかり合い、議論を通じて折り合いをつける」文化があります。
それに対して日本は、八百万の神に象徴されるように、あいまいさや共存を前提として社会が形成されてきました。

たとえば:

  • 正面から議論せずとも察し合う文化
  • 形式より“空気”を読む社会
  • 異なる存在を「善悪」で分けない感覚

これは決して劣ったものではなく、“声にならないものも、ちゃんと存在している”という包容力に近いと思っていま “静かに違和感を感じる人”が排除される社会でいいのか?

たとえば、こんな人たち。

  • 「別姓よりも“家族”という形を守りたい」と思っている人
  • 「同性婚に反対ではないが、自分はピンと来ない」と感じている人
  • 「社会に合わせきれずに静かに暮らしている人」

彼らのような“声にならない声”が、
今、「それって差別じゃない?」と一方的に裁かれる傾向がある。

でも、本当の多様性って、そういう違和感や迷いも許容することじゃないのか?

自分自身、日本的価値観にイラッとすることもある

ここまで「日本の風土に根ざした制度の意義」を書いてきましたが、
誤解しないでほしいのは、私は決して“今の日本社会に何の問題もない”と思っているわけではないということです。

むしろ、日常の中で日本的な価値観にイライラしたことは、何度もあります。

  • 空気を読まなければいけない場面(個人的に苦手ですwみんなどうしてできるの?)
  • 表向きの調和が優先されて本音が語れない関係(みんな、意見を後出ししたがるよねw「私もそう思ってた!」とか大嫌い)
  • 個人の選択や自由が「ワガママ」扱いされること

こういう時、自分の中の「個人としての自立した感覚」が、
日本社会の“空気の圧力”とぶつかって、しんどくなるんですよね。

だからこそ、どちらか一方に寄りきらない議論がしたい

私は、欧米的な“多様性の正義”にも違和感を覚えるし、
日本的な“調和のプレッシャー”にも不満があります。

どちらかが正しくて、どちらかが悪い──という話じゃなくて、
**「どちらも、行き過ぎるとしんどい」**っていうのが、ほんと率直な実感です。

だからこそ私は、

「変わる自由」と「変わらない自由」が、
どちらも同じテーブルに並んでいる社会がいいなって思うんです。

「どちらかになれ」と言われるのではなく、
その中間にある、揺れている気持ちにも場所があること。
それこそが、ほんとうの多様性なんじゃないかな。

「正義」ではなく、「共存」を選ぶということ

もし本当に多様性を大切にしたいのなら、
すべての人に「あなたも正しい」と言うことは難しくても、
少なくとも、こう言える社会であってほしい。

「あなたはそう考えるんですね。私は違うけれど、否定しません。」

対立しなくても共存はできる。
それが、日本の社会が育んできた静かな強さであり、
そして、これからの多様性社会に必要な成熟ではないでしょうか。

結び:「違いを認めよ」と叫びながら、違う意見を認めていないことに気づけるか

多様性という言葉が、誰かの“正しさ”を押しつけるための道具になっていないか。
「正義」の衣をまとった排除が、誰かを黙らせていないか。

そんな問いを、自分自身にも向けながら、
この言葉を、静かにここに置いておきます。

多様性を押し付ける多様性のなさ

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