日本の結婚制度は時代遅れか?──“独自性”こそ多様性という視点
同性婚の議論が活発化する中で「同性婚認めぬ規定「違憲」5件目 大阪訴訟も、法の下の平等に違反」というニュースが目に留まりました。
近年、日本でも同性婚をめぐる議論が活発になってきました。各地の裁判所では「結婚を異性間に限るのは憲法違反」との判断が相次ぎ、社会全体の価値観にも揺らぎが生じています。
しかし、私たちは本当に「結婚とは何か」という根本的な問いに向き合っているでしょうか?
たしかに、国際的な流れを見れば、日本の制度は時代遅れに映るかもしれません。けれど、僕自身は、今の日本の結婚制度がそこまでおかしいとは感じていないのです。
同性婚をめぐる議論がメディアでも取り上げられるようになり、「結婚を異性間に限るのは時代遅れ」「憲法違反だ」とする声がある一方で、「やはり男女であるべきだ」「伝統を守りたい」といった意見も根強く残っています。
この議論がかみ合わないのは、結婚という制度の“定義”が人によって異なっているからかもしれません。
つまり、「結婚とは何のための制度なのか?」という出発点が違えば、見解の分かれも当然と言えるのです。
以下に代表的な結婚の定義を整理してみます。
都会では結婚制度を「平等」や「権利」で語ることが多いですが、田舎に目を向けると、結婚は**「生き方の一部」**として根付いているものです。
それは法律の条文に書かれない感覚や生活のリズムの中にある。制度を変えることが悪いわけではありません。でも、その土地に染み込んだ価値観を無視した改革は、多くの人を“置いてきぼり”にしてしまう恐れがあるのではないでしょうか?
日本の結婚制度は、民法と戸籍法を中心に設計されており、主に以下のような価値観がベースになっています:
→ 結果として、日本の結婚制度は「家族形成+生殖を前提とした社会安定装置」として機能してきたといえます。
以下は、それぞれの考え方で制度を設計した場合の短期的影響/中長期的影響を整理したものです:
◆短期的影響
◆中長期的影響
◆短期的影響
◆中長期的影響
◆短期的影響
◆中長期的影響
◆短期的影響
◆中長期的影響
個人的には、日本という国には【1】のような制度が望ましいと考えています。 他国がどのような体制を採ろうと、日本には日本の歴史と文化、社会的な成り立ちがあり、それに基づいた独自の政策があってもいい。そうした選択もまた、ひとつの文化的な正しさの形かもしれません。
「多様性」という言葉は、しばしば欧米的な価値観──個人主義・リベラル・平等原則──とセットで語られがちです。
しかし、その前提には、一神教的な「絶対的な正しさ」に基づく人権観が存在しているようにも思います。
一方、日本には八百万の神という多神教的価値観が今も文化の根底にあり、多様な存在を“そのまま”受け入れる風土が根付いています。
だからこそ、日本の制度設計もまた、**対立のない共存を志向する「日本的多様性」**の文脈で考えるべきではないでしょうか。
「それが多様性なのでは?」という視点の含意
「多様性」と聞くと、多くの人が“個人の自由”や“リベラルな価値観”を想像するかもしれません。たしかに、同性婚の法制化や権利の平等はその象徴として語られることが多いです。
しかし、**本来の多様性とは、「異なる考え方や制度が、共に存在できること」**ではないでしょうか。
日本には日本の歴史や文化、社会構造があります。そして、その中で育まれてきた価値観に合った制度を選ぶ自由があるはずです。それが、「すべての国が同じ方向に揃うこと」とは異なる、本当の意味での“多様性”なのだと思います。
もちろん、この立場には以下のような反論があることも事実です。
主張 | 懸念される反論 | コメント |
---|---|---|
制度の独自性 | 「制度と価値観を混同していないか」 | 制度は個人の自由と平等を保障するものであり、特定の文化的価値観に偏ってはいけない。 |
伝統重視 | 「伝統という言葉で排除が正当化されていないか」 | 少数派の権利を軽視する結果になっていないか、慎重な検討が必要。 |
国際的整合性 | 「世界的な人権基準との乖離」 | 国際社会との信頼関係、経済連携への悪影響の可能性も無視できない。 |
上記のような意見を元に、同性婚などを認めるという意見があるのは理解しています。
しかし、それを制度として導入することが、果たして日本の文化的土壌や社会構造に本当に馴染むのか、慎重に考える必要があるのではないでしょうか。
日本では長らく、「男女が結びつき、子どもを産み、家族を形成する」ことを前提とした制度が機能してきました。それは次のような文化背景に根ざしています:
こうした風土に育まれた制度が、必ずしも時代遅れであるとは限らないのではないか。外部の価値観を一方的に輸入するのではなく、自国の文化に合った形を模索することもまた、「多様性の実践」と言えるのではないでしょうか。
友人B:「でもさ、子どもを産まない異性カップルもいるよ?」
私:「それはもちろん。子どもを望まない選択も、不妊などで子どもを持てない事情もある。それを否定したいわけじゃない。制度の“前提”として、生殖可能性を含んでいるというだけで、それが唯一の価値とは思っていないよ。」
💡補足:制度の前提は“全体設計の基軸”であり、個々の人生選択や事情を否定するものではありません。多様な生き方の尊重と、制度的枠組みの合理性は両立可能だと考えています。
B:「じゃあ、同性カップルが制度の外に置かれるのは問題じゃない?」
私:「その点は僕もそう思う。だからこそ、パートナーシップ制度の整備や、相続・医療などの法的保護の拡充には賛成しているよ。ただ、“結婚”という制度の本質をどう捉えるかについては、別の視点も大事だと思うんだ。」
B:「世界では同性婚が当たり前になってきてるし、日本も遅れてるんじゃない?」
私:「たしかに国際的な流れはある。でも、“同じでなければならない”ことが多様性なのかな?僕はむしろ、“違っていても尊重される”ことが、本当の多様性だと思うんだ。」
友人B:「でもさ、もう今は“多様性の時代”なんだよ?」
私:「そうだね。でも、“多様性の名のもとに、全員が同じ方向を向かされる”って、ある意味多様性を押し付ける多様性のなさじゃないかなって感じるときがあるんだ。」
私は、結婚制度は「個人の契約」以上に、「家族を基礎とした社会の持続性」を支える制度であるべきだと考えています。
そしてその制度は、日本の風土や文化に根ざしたものであることが、最も無理がなく、自然であると感じます。
たとえば私は、「家」を社会の基本単位とする考え方に、深く馴染んでいます。
それは、個人を否定したいわけではありません。むしろ、家という共同体があるからこそ、個人の安定や安心が生まれると思うのです。
だからこそ、夫婦別姓や同性婚の制度化に対しても、どちらかといえば慎重な立場を取っています。
家を“つなぐ”という機能や、家族という集合単位が持つ連続性を軽んじる制度変更は、地域社会や次世代への影響が小さくないと感じているからです。
また、近年の“多様性”をめぐる国際的な議論には、少し違和感を覚えることがあります。
それは、欧米を中心とした**「一神教的な価値観」**に強く根ざした、“個人の権利や自由を最優先する”という世界観です。
確かにそれは、一貫した人権思想として尊重されるべきものです。
けれど、日本には日本独自の価値観があり、多神教的な「共存」の感覚があります。
日本の社会は、「絶対的な正しさ」よりも、「違いを許容し、曖昧なまま共に暮らす」ことを良しとしてきました。
だからこそ、“異なる価値観がそのまま存在してよい”という、静かな多様性のほうが、私たちの文化にはしっくりくるのです。
そして、この“家”という単位を大切にする社会設計は、子どもの福祉の観点からも意味があると考えています。
これらはすべて、子どもにとっての「見えない安心」につながります。
もちろん、「家のかたち」は一様ではありません。核家族もあれば、再婚家庭もありますし、シングルの親御さんだって立派に子育てされています。
でも、制度の“土台”としてどのモデルを基本とするかを考えるとき、「家を中心とした共同体モデル」は、今なお有効であり、失うには惜しい文化的資産だと思うのです。
多様性という言葉が広がる中で、私は次のように考えています。
社会制度をめぐる議論が、排除でも強制でもなく、「共存するためのバランス」を模索するものであってほしい。
そんな想いで、この文章を書いています。
「変わること」が善、「変わらないこと」が悪、とは限りません。
日本独自の文化・価値観に根ざした制度を維持することも、**もう一つの“多様性のかたち”**です。その選択が誰かを傷つけないよう配慮しつつ、静かに抱えている違和感や戸惑いにも、耳を傾ける社会であってほしいと願っています。
今の結婚制度が完璧だとは思っていません。改善の余地はあるし、変化を求める声にも耳を傾ける必要があります。
けれど、「変えること=善」「変わらないこと=悪」とは言い切れないはずです。
僕は、“変えないという選択肢”があってもいいと思っています。それもまた、立派な多様性の一部だと考えています。
社会の制度は、声の大きな人たちだけで決めるものではありません。静かに生活している人々が感じていること、口に出せない違和感や戸惑いにも、ちゃんと居場所がある社会であってほしい。
僕にとって、結婚制度とは単なる法律の枠組みではなく、自分の育った環境や、信じてきた家族の在り方と深く結びついています。
「時代遅れ」と一蹴される前に、その背景にある“風土”や“思い”にも目を向けてほしい。
だからこそ、こうして自分の言葉で書いてみました。
これは、声にならない声を代弁するつもりもなく、ただ一人の田舎出身の長男としての素直な気持ちです。