饒舌なる静かな多様性論者のブログ

子育てのメリット・デメリットを考えるあなたへ——「子どもがいてよかった」と語ることの難しさ

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「子どもがいてよかった」と言いづらい時代

「子育てのメリットってあるの?」
「正直デメリットのほうが多いのでは?」
そんな声がネット上でもリアルでもよく聞かれるようになりました。

一方で、「子どもがいてよかった」と語ることが、どこか“自慢”や“マウント”のように受け止められてしまうこともあります。

このコラムでは、子育てのメリットとデメリットの両面を見つめながら、「子どもがいてよかった」と語ることの意味と、その難しさについて、個人的な視点からそっと綴っていきます。

「それってドヤってる?」——“子育てしてよかった”が言いづらい時代の空気感

「子どもがいてよかった」と語ることに、どこか“押しつけがましさ”を感じるという声があります。
「それって、自慢?」「子どもを持たない人に対するマウント?」——
そんなふうに受け取られる可能性があるということは、私自身、文章を書きながら何度も自問しました。

実際、私自身も、「子どもがいてよかった」と思う一方で、それを言葉にすることの難しさを感じてきました。

特に今は、「子育てはコスパが悪い」「デメリットの方が大きい」といった意見も多く見かける時代です。

そんな空気の中で、あえて子育てのメリットを語ることは、どこか“空気が読めてない発言”のように映るのかもしれません。

実際、誰かにとって「幸せ」のかたちが異なるのは当然ですし、なにより「子どもがいない人生」を選んだ人、望んでも叶わなかった人にとっては、「いてよかった」という言葉が刃のように響くことがある——それも、よくわかります。

だからこそ私は、そうした受け取り方を想定したうえで、慎重に、そして誠実に言葉を選びながら書いてきました。


子育ての喜びは“自慢”じゃない——勝ち負けではなく、ただの“気づき”として

私が語りたいのは、「子どもがいる人生は素晴らしいから、みんなそうするべきだ」というメッセージではありません。
子育ての喜びを“自慢”として伝えたいわけではありません。

ただ、自分の人生の中で「この時間があってよかった」と、素直に感じているだけなんです。

 また、「だからあなたも子どもを持ちなさい」と言いたいわけでもありません。

そうではなくて——
かつての私自身が「子どもなんて別にいなくても…」とどこかで思っていたからこそ、
今になって、「実はこんな景色もあるんだよ」と、小さな声で伝えてみたかったのです。

自分でも予想できなかったような、心の揺れや発見。
それらを“価値あるもの”と感じられたことが、思いのほか深かった。

でもその想いが、時に「押しつけがましい」と受け取られてしまうことがある。

だからこそ、「子どもがいてよかった」と言うこと自体が、今では慎重な表現になってきたのだと思います。
とはいえ、その言葉を誰かの人生と比較するつもりはまったくありません。

それぞれの選択肢には、それぞれの価値があります。

子育てのメリットもあれば、当然デメリットもあります。

子どもがいることで失う自由もある。

それでも私にとっては、得られたものが大きかった——ただそれだけの話です。

子育ては非効率——でも、その非効率の中にある価値

「子育てってメリットあるの?」という問いを見かけることがあります。
たしかに、時間・お金・自由・体力——すべてを削られる感覚はあります。
夜中に起こされて眠れず、仕事に支障が出たこともあるし、
行きたかった場所をあきらめたこと、欲しかったものを我慢したこと、数えきれません。

それでも、私は「それでもよかった」と思っています。
理由はシンプルで、そこに“誰かと一緒に過ごした時間”があったからです。
思い通りにならない毎日を共に乗り越え、
何気ない言葉や表情に、たしかな“自分の居場所”を感じられたからです。

「語ること」は、押しつけではなく、“記録”のようなもの

子どもがいる人生を語ることは、「他の人生より優れている」と言いたいわけではありません。
むしろ私は、「こんな考え方もあるんだ」と誰かにそっと伝わるように、記録を残したいのだと思っています。

子育てには向き・不向きがあるし、環境によってまったく違う経験になります。
でも、誰かが「自分はこうだったよ」と語ることに意味があると、私は信じています。
それが、子どもを持つかどうか迷っている誰かにとって、選択の一助になるなら——
語ることにも、小さな役割があるのではないでしょうか。

傷つけたくない気持ちと、それでも言葉にしたい想い

「誰かを傷つけたくない」
この気持ちは、ずっと根底にあります。

でも、だからといって自分の経験すべてに蓋をするのも、また違うように感じました。
語らなければ、何も伝わらない。
語りすぎれば、誰かを傷つけてしまう。

その葛藤のなかで、私は「これはあくまで“一人の人間の視点”として読んでいただけたら」と思いながら書いています。

それは“答え”を差し出すものではなく、“問い”をそっと置いていくような行為に近いかもしれません。

子どもを持つことを語る意味「語らない自由」が広がるなかで、「語る自由」も

今の時代は、「あえて語らない」という選択が尊重されるようになってきました。
子どもを持つ・持たない、結婚する・しない、キャリアを優先するかどうか——
それらを「個人の自由」として語らずとも許される、そんな社会になってきたことは、確実な前進だと思います。

でも同時に、「語る自由」もまた、失ってはいけないものだと私は感じています。

自分の中に湧き上がってきた実感や、誰かとの関係のなかで得たかけがえのないもの。
それを誰かに届けたいと思う気持ちもまた、尊重されるべきではないでしょうか。

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