現代社会では、「コストパフォーマンス(コスパ)」や「タイムパフォーマンス(タイパ)」という言葉が、日常会話の中にも自然に入り込んでいます。
買い物ひとつ、休日の過ごし方ひとつでも、「損をしたくない」「少ない労力で最大の効果を得たい」という感覚が当たり前になってきています。
そしてそれは決して悪いことではありません。
私自身も、若い頃は「いかに効率よく、いかに得をするか」に重きを置いていた一人です。
合理的に物事を判断しようとする姿勢は、間違いなくこの時代に合った価値観です。
実際、私自身も若いころは、「いかに損をせず、いかに得を得られるか」という目線で、選択をしていた時期がありました。
でも、こと子育てに関して言えば——そんな短期的な合理性の視点で子育てを見ようとすると、まったく見合わない選択のように映ります。
コスパもタイパも、正直“最悪”です。
お金はかかるし、時間も手間も奪われるし、思い通りにならないことばかり。
計画通りにはいかないし、成果も数字で測れない。
小さい子供は言うことを聞かないし、成長したらしたで生意気な煽りをしてくる・・・
「だったらやらないほうがよくない?」
そう思うのも、ある意味では正直な反応なのかもしれません。
でも私は、そうした“非効率”の中にこそ、他では得られない価値があると感じています。
それでも私は、コスパやタイパを超えて、「なぜこの営みが長い人類史のなかで続いてきたのか」を考えるようになりました。
そこには、“生き物としての仕組み”があると感じるのです。
少し視点を変えてみましょう。
人間を「生き物」として見たとき、子育てという営みは、損得や成果では測れない“本能的な仕組み”の一つです。
動物が子どもを育てるのは、決して見返りがあるからではありません。
種としてつながり、遺伝子や知識を次代に受け渡すことは、生き物としてのリスクヘッジなのです。
私たちは、体力が落ち、判断力が衰え、社会との接点が減っていく——そんな老年期に向けて、どこかで「孤独への備え」を自然と考えるようになります。
そのとき、「誰かとつながっている」という実感が、自分を支える力になることがある。
それは、決して子どもに頼ろうとか、依存しようという話ではなく——
“つながり”という構造自体が、リスクへの備えになるのだと考えています。
子どもを育てることに明確なリターンはありません。
むしろ「損」だと思える瞬間もあるし、「こんなはずじゃなかった」と感じることも正直あります。
でも、それでもなぜ人は子どもを育ててきたのか。
それは、社会が進化しようと、テクノロジーが発展しようと、人間が生き物である限り「次の世代」とつながることが、心や身体のバランスを支えてくれる何かがあるから——
私は、そんな風に思うようになりました。
もちろん、全員がこのような感覚を持てるわけではないと思います。
子育ての中にこうした価値を見出せない人がいたとしても、それはまったく自然なことです。
それでも私は、「それって実際どうなの?」と感じている人にこそ、この“感情の資産”という言葉を手渡してみたいと思いました。
効率の良さではなく、意味の深さ。
短期的な成果ではなく、長期的な充足感。
そういうものも、人生の中にはちゃんと存在するということを、伝えたかったのです。
今、若い世代の多くが「子どもを育てたくない」と考えるのも自然な流れかもしれません。
人生にはいろんな選択肢があります。
でも、もしあなたが「将来が不安だ」と感じることがあるなら、子どもという存在は、**“生き方の構造にリスクヘッジを持たせる”**という視点で捉えてみる価値があるのかもしれません。
それは、報酬を期待してやるものではありません。
ただ、どこかで「この選択が、自分の未来の支えになるかもしれない」と思えたとき——
子育ての“非効率さ”も、ちょっと違って見えるかもしれません。