饒舌なる静かな多様性論者のブログ

子どもは“授かりもの”——選べない人生の中で、選べることを大切にしたい

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子どもができないかもしれないと感じたときの心構え

私たち夫婦は、比較的遅いタイミングで結婚しました。
私は34歳、妻は38歳。

当時から「子どもは授かりものだし、いなければいないで、それも一つの人生だよね」と話し合っていたのを覚えています。

どこかで「まあ、いつかできるだろう」と思っていたわけではなく、むしろ「もしかしたら、ないかもしれないね」と、ある種“手放した”感覚すらありました。

そんな中で結婚から2年後、子どもを授かることができたことは、私たちにとって完全に“予想外の幸運”でした。
「僥倖(ぎょうこう)」という少し堅い言葉が、これほどしっくりくる体験はそう多くありません。

「子どもを授かる」という言葉の本当の意味とは?

「子どもは授かりもの」という言葉は、時に漠然とした希望や、宗教的・運命的な響きを持つかもしれません。
けれど、私たちにとってこの言葉は、もっと地に足のついた、現実的な感覚でした。

それは、「子どもができるかどうかは自分たちの意志だけでは決められないこと」「だからこそ、過度に期待せずに受け入れる」という、控えめな構え方だったように思います。

人生には、どれだけ願っても叶わないことがあります。
努力が報われないこと、どうにもならないこともあります。
子どもに限らず、「授かるもの」は、決して“当然”の結果ではなく、感謝とともにそっと受け取るべき“偶然”や“巡り合わせ”なのだと、今になって強く感じます。

「子どもが授からなかった人生」もすぐそばにある

だからこそ、私たちは、子どもを授かることができたこの経験を、当たり前だとは思っていません。

「子どもが欲しかったけど授からなかった」
「さまざまな事情で持たない選択をした」
「持ちたくても持てる状況にいなかった」——

そんな人生は、決してどこか遠くの世界の話ではなく、私たちの身近な友人たちの中にもたくさんあります。

子どもがいない人生に、意味や価値がないなんてことは絶対にありません。
むしろ、子どもを持たないからこそ築かれる関係や、培われる深い豊かさもたしかにあると、私は思っています。

だから私は、「子どもがいてよかった」と語るときに、どうしても慎重になります。
その言葉が、無意識のうちに誰かを傷つけるものにならないように。
そして何より、どんな人生であっても、そこにあるかけがえのなさを、私自身が見落とさないように。

「子どもを授かる」という言葉の本当の意味とは?

「子どもは授かりもの」という言葉は、ときに漠然とした希望や運命論のようにも聞こえるかもしれません。でも私にとっての“授かる”という感覚は、決して期待を前提とした言葉ではありませんでした。

むしろ、「思い通りにならない」「だからこそ、過剰に期待しない」という控えめな姿勢に近いのです。

人生には、どれだけ努力しても報われないこと、望んでも届かないことが、確かにあります。だからこそ、子どもに限らず、「授かるもの」は決して当たり前ではなく、感謝と共に受け取るべき“偶然”なのだと、今は思います。

「子どもが授からなかった人生」もすぐそばにある

だからこそ、私たちはその幸運を、当たり前のものとは決して思っていません。

「欲しくても授からなかった」「子どもを持たないと決めた」「持てる状況になかった」——
そうした人生は、決して遠くの話ではなく、実際に私たちの友人にもたくさんいます。

子どもがいないからといって、人生の意味が失われるなんてことは絶対にない。
むしろ、子どもがいない人生だからこそ築かれる豊かさも、たしかに存在する。

だから私は、「子どもがいてよかった」と語るときに、どうしても慎重になります。

「子どもは授かりもの」という言葉に込めた“期待しすぎない”という姿勢

「授かりもの」という言葉は、どこか宗教的に聞こえるかもしれません。
けれど私にとってこの言葉は、「思い通りにならない」「だからこそ、過剰に期待しない」という姿勢を表す身の丈に合った感覚です。

人生には、努力しても報われないこと、望んでも届かないことが、どうしてもあります。

それは子どもに限ったことではなく、仕事、健康、人間関係、あらゆるところで感じる現実です。

だからこそ、「できたらラッキー」「できなかったら、それも私たちの人生」という構え方でいることは、ある意味で大切なことだったと、今になって思います。

私たちは最初から「期待しすぎない」ことを、ある意味で自分たちを守るために選んでいたのかもしれません。

子どもを持つことを語るということは、同時に“語らない人生”を尊重することでもある

前回も書きましたが、私の経験はあくまで「一例」にすぎません。
その前提を忘れないようにすることが、このテーマで文章を書くときの最低限のマナーだと思っています。

世の中には、子どもを望んでも持てなかった人がたくさんいる。
だからこそ、私は「できたことが当たり前」だとも、「できない人生が劣っている」だとも、絶対に思いません。

どちらの人生も、かけがえのないものです。
そしてそれぞれが、その中で自分なりの“意味”を見つけながら生きていくことが、大切なのだと思います。

「選べないことがある」からこそ、「選べること」を大切にしたい

人生のすべてが、自分の意思で選べるわけではありません。

それでも、ときどき、ほんの小さな“選択のチャンス”がやってくることがあります。

たとえば——

・どう生きたいか

・誰と時間を過ごしたいか

・どんな日々を大切にしたいか

そうした選択肢に出会ったとき、私は「丁寧に向き合っていきたい」と思うようになりました。

子どもがいる毎日は、大変だけど、かけがえのない日々

正直なところ、子育ては想像以上に大変です。
寝不足になったり、自由がなくなったり、お金の心配が尽きなかったり……。

でも、それ以上に、「いてくれてよかった」と思う瞬間が、ふとした日常にあります。
たとえば、笑いながら学校の話をしてくれる夕方の時間、手をつないで歩く帰り道、寝る前に「おやすみ」と小さくつぶやかれる声。

その一つひとつが、静かに心に積み重なっていき、「人生って悪くないな」と思わせてくれるのです。

最後に——「人生は選べないこともある」からこそ

私たちは、自分の人生をすべて選べるわけではありません。
選びたくても、選べないことがある。どれだけ願っても、届かないこともある。

子どもがいる人生、いない人生。

どちらが上で、どちらが正解ということはありません。

だからこそ、選べることがあるとき——どんな人生を築きたいか、どんな日々を大切にしたいか——
その小さな選択のひとつひとつに、やさしく向き合っていけたらと思うのです。

私は今、自分の選んだ(というより、巡ってきた)この道に、じんわりとした喜びを感じています。

子どもがいる人生、いない人生。
どちらも、誰かに誇らなくていい、かけがえのない人生であることは、変わりません。

人生は、すべてを選べるわけではない。
だからこそ、選べることに、丁寧に向き合っていく。

そんな積み重ねの先に、ほんの少しの「豊かさ」があるのだと信じています。この考えが誰かの心を少しでも軽くできますように

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