最近、「多様性」という言葉を耳にする機会が非常に増えています。メディアやSNS、教育現場や職場など、あらゆる場所で多様性(ダイバーシティ)の重要性が語られています。人種や民族、性別や性的指向、宗教や文化、障害の有無に至るまで、さまざまな差異を尊重し、受け入れることが推奨され、これはより公正で平等な社会を築く上で欠かせないことです。
確かに、多様性は私たちの社会に新たな視点をもたらし、創造性やイノベーションを促進するというポジティブな側面を持っています。多様性を重視することで、組織や社会は新たな価値観やアイデアを受け入れ、より柔軟で包括的な社会へと進化していくことが期待されています。
しかしその一方で、多様性を必要以上に意識しなければいけない状況が、精神的な疲労感やストレスをもたらすことも否定できません。多様性の重視は、異なる視点や文化、価値観に絶えず注意を払うことを求められます。特に現代はインターネットやSNSの普及により、膨大な情報に瞬時にアクセスできるようになり、常に新しい知識や理解を求められる状況にあります。
私自身も、多様性を理解し、積極的に学ぼうと努めていますが、この「絶え間ない情報処理」が時に大きなストレスとなることがあります。毎日のように新しい価値観や社会的な課題に触れ続ける中で、情報の洪水に飲み込まれそうになることもしばしばです。日常生活での些細な選択においてさえ、多様な意見や価値観を考慮しなければならないというプレッシャーは、精神的な疲労を引き起こす原因になっています。
さらに、多様性を尊重するあまり、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」が過度に求められるようになってきていることにも問題を感じます。ポリティカル・コレクトネスとは、差別や偏見を避けるために言葉や表現を慎重に選ぶという概念ですが、これが極端に進むと、自由な発言や自然な表現が抑制されてしまいます。ときには意見の多様性そのものを奪い、本来目指しているはずの自由で多様な社会から遠ざかってしまう可能性も否定できません。
実際に、多様性への理解を求める運動や活動の中には、時として押し付けがましい傾向が見られることがあります。多様性を「正義」として強調しすぎることで、異なる意見や価値観を持つ人々が「間違っている」と断罪される風潮も生まれてしまっています。これは逆に、相互理解や共生を遠ざけ、人々の分断や対立を深める原因にもなりかねません。
多様性とは本来、相互理解や相互尊重を促すものであるはずです。それが押し付けとなってしまった瞬間に、多様性という概念そのものが本来の価値を失ってしまいます。例えば、過度なポリコレが生む「キャンセルカルチャー(排斥文化)」の問題もあります。これは、多様性を尊重しないと見なされた人や意見を排除しようとする動きであり、本来の多様性の尊重とは相反する行動です。
また、多様性を重視する社会の中で、自分自身の立ち位置や価値観を見つけることも容易ではありません。自分がどの集団に属しているか、どのような考え方を持つべきか、絶えず模索を強いられるため、精神的に疲弊してしまう人もいるでしょう。自己を見失い、混乱を感じることも珍しくありません。
私自身、多様性を受け入れ、異なる視点を理解しようと努めてはいますが、常に完璧にそれを実践することは現実的ではないと感じます。時には情報をシャットダウンし、自分自身の考えや感覚だけに集中する時間も必要です。そうでなければ、多様性への取り組みは長続きしないでしょう。
多様性を持続可能な形で取り入れるためには、強要ではなく、自然な理解と寛容な姿勢が重要です。自分の意見を自由に表現し、違う意見を持つ人々ともオープンに対話を交わしながら、徐々に互いの理解を深めるという姿勢こそ、多様性の本質に最も近いのではないでしょうか。
「多様性疲れ」は、多様性という理想に向かう社会が直面する課題の一つです。この疲れに対処するためには、情報との距離を取り、自己の限界を認識し、自分自身の精神的な健康を最優先に考えることが重要になります。無理をせず、多様性を強要されることなく、自分なりのペースで多様な世界と向き合うことで、本当の意味での多様性を享受することができると私は信じています。