若い頃カメラマンを目指し、写真の学校に行っていた私の個人的な感覚ですが、かつて、写真芸術は「カメラを持ち歩く人々」の専売特許でした。これは単にカメラを所有しているということを超えた意味を持っていました。街を歩きながら、意識的にカメラを手に取り、ある瞬間を切り取ること。それは「私は写真を撮る人だ」と自らに、そして周囲に宣言する行為であったのです。しかしながら、時代は変わりました。今や、ほとんどの人がネットワーク機能付きのカメラ(スマートフォン)を携帯し、いつでもどこでも写真を撮ることができます。写真が特定の人々のものではなく、すべての人に開かれたものとなったのです。
写真芸術がこのように変化した背景には、技術の進歩が大きく影響しています。技術に立脚した芸術形式として、写真は比較的早くから社会的な受容を得ました。これは技術の発展が、より多くの人々に写真を撮る機会を提供したからに他なりません。同様に、絵画もまた大きな変革を迎えています。かつては絵が描ける人のものでしたが、AI技術の進歩により、「絵が描けない人でも絵を描くことができる」という新たな時代が到来しています。
しかし、AIによる絵の生成に対しては、一部に根強い嫌悪感が存在しているように思われます。これは、技術の進歩がもたらす便利さや新たな可能性を超えた、もっと根本的な問題を指しているのかもしれません。それは、AIによる芸術作品の生成が、「創造性」や「オリジナリティ」といった芸術の本質に対する挑戦と見なされているからかもしれません。人間の手による創作活動は、個人の経験、感情、思考が反映されるものです。それに対し、AIが生成する芸術作品は、アルゴリズムやデータに基づいています。この違いは、AIによる芸術作品に対して、何か「欠けているもの」があると感じさせるのかもしれません。
しかし、技術の進歩によって新たな表現の形が生まれるのは、芸術の歴史の中で常に見られる現象です。写真が登場した当初、それを芸術と認めようとしない声も多くありました。絵画とは異なり、機械を介して現実を「複製」する行為に、芸術性を見出すことに抵抗があったのです。しかし、時間が経つにつれ、写真は独自の芸術形式として認められるようになりました。同様に、AIによる芸術も、その価値や意義が徐々に理解され、受け入れられるようになる可能性があります。
結局のところ、芸術とは何か、そして創造性とは何かについての問いは、時代と共に変化し続けるものです。AIによる芸術作品がもたらす新たな視点や表現方法は、芸術の定義を再考する機会を提供してくれるかもしれません。技術が進化することで芸術の形が変わるのは避けられないことですが、その中で人間ならではの感性や思考がどのように反映されるかが、これからの芸術作品にとっての大きな課題となるでしょう。