私たちが生きる世界は、多くの場合、性別に基づく役割や期待に満ちています。これは私自身の経験からも明らかで、特に若い頃、男らしさや女らしさといった概念に自分がどう関わっていくべきか、しばしば苦悩しました。中年になるにつれ、そのような固定観念に捉われることは少なくなりましたが、それでも社会的な枠組みは無視できないものとして存在し続けています。
例えば、男性として育った私は、無意識のうちに「男らしさ」を求められ、それに応えようとする圧力を感じることがありました。強さ、決断力、感情をあまり表に出さないこと…これらは一般的に男性に期待される特性です。しかし、これらの特性が必ずしもすべての人に当てはまるわけではなく、またそれらを持つことが他を劣らせることにはなりません。自分自身を見つめ直し、自分にとっての「男らしさ」とは何か、本当に大切なことは何かを考えるようになりました。
同様に、女性もまた、「女性らしさ」という枠組みに押し込められることがあります。優しさ、配慮深さ、美しさなど、女性に期待される特性もまた、個人の多様性を無視した一般化であることが少なくありません。女性がこれらの特性を「武器」として使うことがあると言われることもありますが、それは単に生き抜くための戦略であって、女性らしさを演じること自体が目的ではないはずです。
このような性別に基づく期待から自由になるためには、まずはそれぞれが自分自身に問いかけることから始める必要があります。自分は何を大切にしているのか、どのような人間でありたいのか。そして、他者との関わりの中で、互いの多様性を尊重し、固定観念に縛られることなく接することができれば、より豊かな人間関係が築けるのではないでしょうか。
私たちは、性別という枠組みを超えて、それぞれが持つ個性や能力を最大限に発揮できる社会を目指すべきです。それは、単に男らしさや女らしさを否定するのではなく、それぞれの個性を認め合い、尊重することから始まります。このような考え方が、少しずつでも社会に浸透していくことを願ってやみません。
私たちの価値は、性別によって決められるものではありません。それぞれの人間としての深み、強さ、そして脆さを理解し合う中で、私たちはより豊かな人生を送ることができるのです。そして、それは多様な個性が共存する社会の実現にもつながっていくでしょう。
中年になって思うのは、人生は常に変化し、成長するものだということです。そして、その過程で自分自身のアイデンティティを再定義することは、決して遅すぎるということはありません。男らしさや女らしさに捉われず、自分らしく生きる勇気を持ち続けること。それが、私たち一人一人が目指すべき道ではないでしょうか。