50歳に近づいたころから、ニュースの見え方が変わりました。
同年代の人が逮捕された、事件を起こした、突然亡くなった——そういう報道を見たとき、昔とは明らかに違う感覚が体の中で動くようになったのです。
若いころは、ニュースで見る犯罪や事件の主役が「どこか遠い世界の、別の世代の話」に見えていました。加害者も被害者も、自分とは関係のない別の人間の話。テレビの向こうの出来事として処理できていた。
それが、自分が50代になると、急に生々しいリアリティを持って迫ってくるのです。「ああ、同い年か」と思った瞬間から、ニュースがただの情報ではなくなります。
正確に言うと、2種類の「近さ」があります。
一つは、被害者との近さです。交通事故、突然死、病気——同年代が亡くなるニュースを見たとき、「自分も5年後、10年後に同じようなことが起きないとは言い切れない」という現実が、ぐっと身に迫ってきます。若いころは「死」が遠かった。50代になると、それが「射程距離に入ってきた」感覚になります。
もう一つが、加害者との近さです。これが、より厄介です。
たとえば、仕事のプレッシャーで追い詰められた同年代の男性が横領や詐欺に手を染めた、というニュース。30代のときは「なんでそんなことをするんだ」と他人事として見ていたものが、50代になると「あの状況なら、自分も判断を誤っていたかもしれない」という感覚が混じってくるのです。
経験の積み重ねが、共感の幅を広げてしまった、とでも言うのでしょうか。長く生きた分だけ、「追い詰められた人間がどういう状態になるか」を、体で少し知ってしまっているのです。
少し前に、このブログで巨人・阿部慎之助監督の事件について書きました。娘への暴行容疑で逮捕され、監督を辞任したという話です。
あの記事を書きながら、自分でも少し驚いたことがあります。「なぜこんなに他人の家のことが、こんなに生々しく感じられるのだろう」と。
阿部慎之助は47歳。私とほぼ同い年です。娘を持つ父親という点も同じです。プロ野球選手という点は違うけれど、「仕事のプレッシャーを背負いながら、家では親として娘と向き合っている50代の男」という輪郭は、完全に重なります。
だから、あのニュースは単なる有名人の事件として流れていかなかった。「もし自分が同じ状況に置かれたとき、完全に冷静でいられたか」という問いが、気づかないうちに自分に向いていました。
思い返せば、20代30代のころ、ニュースの出来事が自分と切り離されて見えていたのには、いくつか理由があったと思います。
まず、単純に「年齢的な距離」がありました。事件の加害者が40代50代なら、30代の自分には「まだ先の話」という感覚がある。被害者も「お父さん世代の話」として処理できた。
次に、「経験の浅さ」が防波堤になっていたのかもしれません。まだ人生の折り返し地点を迎えていないうちは、自分がどこまで追い詰められうるか、どこで折れうるか、その限界値を体で知らない。だから「ああはならない」と根拠なく思えていた。
それから、「自分はまだこれからだ」という前向きな余白も、緩衝材として機能していたのだと思います。未来がたっぷり残っていると感じているうちは、「失敗して終わった人の話」は別の世界の話として隔離できる。
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50代になると、この3つの防波堤が、一枚ずつ剥がれていきます。
年齢の距離は消えます。「50代の加害者」は、もう自分と同じ世代です。経験の浅さは、もうありません。長く生きた分だけ、限界や弱さを自分の中に見てきた。そして「これからが長い」という感覚も、静かに薄れていきます。
残るのは、「自分も、条件次第では、どちら側にもなりえた」という、裸の認識です。
これを「老い」と呼ぶべきかどうかわかりません。ただ、若いころより視野が広くなったとも言えるし、守るものが増えた分だけ怖くなったとも言える。どちらも本当のことだと思います。
ニュースが「自分ごと」として迫ってくる感覚は、決して悪いものだけではないと思っています。
それは、他者への解像度が上がったということでもある。加害者を「わからない人間」として切り捨てず、「どういう経緯があったのか」と少し想像できるようになった。被害者の痛みを「ありうる話」として引き受けられるようになった。
ただ、引き受けすぎると、それはそれで消耗します。毎日のニュースに「自分ごと」として揺さぶられ続けていたら、心が持たない。ある程度の「距離の取り方」も、50代以降の生存戦略として必要なのだと、最近は思っています。
あるいは、もっとシンプルに言えば——「ニュースが自分ごとに見える」という感覚は、想像力の成熟なのかもしれません。若いころの自分は、他人の痛みや失敗を外側から見ていた。50代になって、ようやく内側から想像できるようになってきた。それは、悪いことではないのだと思います。
「近い」と感じることができる。でも、飲み込まれない。その塩梅を、これからゆっくり身につけていくしかないのだろうと思っています。
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