母から電話があったのは、何でもない平日の夜のことだった。「お父さんがね、免許を返納することにしたんだって」。その一言を聞いた瞬間、私は言葉が出なかった。
父は今年で78歳になる。地方に住んでいて、車は生活の足そのものだ。スーパーも病院も、車がなければ行けない距離にある。免許を返納するということは、その自由を手放すということだ。それがどれほど大きな決断か、すぐに想像できた。
「そうか」とだけ答えて電話を切った後、しばらく画面を眺めていた。なぜか、胸の奥がじんとした。
父に感謝している、という気持ちはずっとあった。育ててもらった、学校に行かせてもらった、困ったときに助けてもらった。そういう意味での「世話になった」という感覚は、大人になってからもずっとある。
でも「尊敬」となると、正直に言えば、そこまでの感情を持ったことはなかった。父は特別に偉い仕事をしていたわけでも、すごい功績を残した人でもない。普通の、どこにでもいるような父親だった。そのことを悪く思っていたわけではないが、「尊敬」という強い言葉をあてはめる機会がなかった。
それが今回、初めて変わった。
返納を決めた理由を、後から母に聞いた。「自分でも、反応が遅くなってきたのがわかるんだって。だから、何かが起きる前に自分でやめようと思ったって言ってたよ」。
その言葉を聞いて、私はぐっときた。
「まだ運転できる」と信じて続ける人は多い。実際、高齢ドライバーによる事故のニュースを見るたびに、なぜ自分で気づかないのだろうと思うことがある。でもそれは、気づきたくないのではなく、気づくことが怖いのだと、今はわかる。車の運転は、自立の象徴だ。それを手放すことは、自分の衰えを認めることに直結する。
父はそれを、自分から認めた。誰かに言われる前に、事故を起こす前に、「もう潮時だ」と自分で判断した。78歳で、だ。
何かをはじめることより、やめることの方が難しいと、よく言う。それはスポーツでも、仕事でも、人間関係でも同じだと思う。そして特に、長年続けてきたことを手放すことは、相当な覚悟がいる。
父が免許を取ったのは、まだ若い頃のことだ。何十年もの間、車は父の生活の一部だった。その車を手放すという決断を、父は静かにひとりでしていた。母に相談したのかどうかも知らない。でも「返納することにした」と言ったとき、すでに決意は固まっていたのだと思う。
その静けさが、かえって私には重く響いた。じたばたしない。言い訳をしない。ただ、自分の判断で決める。それが父という人間の、ひとつの核心なのかもしれないと、初めて気がついた。
親が老いていくのを見るのは、子どもにとって複雑な感情を伴う。寂しさ、心配、そして何もできない無力感。電話越しに「元気だよ」と言う声が、少し細くなってきたような気がするとき、胸が痛くなる。
でも今回の件で、少し気持ちが変わった。父は老いを嘆いているわけではない。衰えを認めながら、それでも自分の判断で生きようとしている。その姿は、弱さではなく強さだと思う。
私はこれまで、親の老いを「心配するもの」として見ていた。でも本当は、親の老い方にも、その人らしさが出るのかもしれない。父の返納は、父が父であることの、一つの証明だった。
翌日、父に直接電話した。「免許返したんだって」と言うと、「ああ、もうそんな歳だからな」と笑った。いつもと変わらない、飾らない声だった。特別なことをしたという素振りは一切ない。
その何気なさに、また胸を突かれた。
尊敬というのは、遠くにある大きなものにだけ向けるものだと思っていた。でも案外、一番近くにいる人が、一番静かな形で、一番深いものを見せてくれることがある。父がそれを教えてくれた。
次に帰省したときは、一緒にどこかへ行こうと思う。今度は私が、運転する番だ。
