先日、熱を出して寝込みました。
しっかり病院に行き、薬をもらい、そのおかげで驚くほどすぐに動けるようになった……のですが、なんだかずっと違和感が残りました。
この感覚、なんなんだろう?とぼんやり考えながら、「風邪を引いたら病院に行くべきか?」という昔の自分のブログ記事を読み返してみたんです。
そこでは、風邪の初期段階で病院に行くことの“コスパの良さ”を力説していました。
その考え自体は、今でも間違っていないと思います。
けれど今回は、薬の「効きすぎ」によって身体の声が封じ込められてしまう、妙な体験をしたんです。
薬を飲んだ数時間後、熱も痛みも引いたように思えました。
体も軽くなって、「ああ、治ったのかな」と一瞬感じた。
でも、頭の奥にはまだ重さが残っているし、喉の奥には火種のような違和感もある。
何かが“そこにある”のに、“感じなくされている”ような感覚でした。
まるで、アラーム音を毛布で包んで一時的に小さくしたような状態。
症状は消えたわけではなく、「聞こえなくなっているだけ」だったんです。
体は動く。でもどこか、自分の身体じゃない。
視界はクリアなのに、ほんの少し距離があるような不自然な感覚。
体が他人にリモート操作されているような、そんな違和感。
この状態に私は、**「借り物の健康感」**という名前をつけてみました。
薬によって、“自分の体に一時的に健康が貸し出されている”ような感覚。
表面的には元気に見えるけれど、内側ではまだ治癒活動が続いていて、
薬のフィルターがその本音を遮っている。
そんな状態だったのだと思います。
もちろん、風邪をこじらせないために早めに病院に行くのは正解です。
私も今回、薬のおかげで短期間で社会復帰できました。
特に年齢を重ねると、副鼻腔炎や中耳炎、肺炎など、風邪が引き金となる二次被害も増えます。
その意味で、病院にかかって薬を処方してもらうことは、とても理にかなっている。
経済的な面でも、症状が悪化して長引けば、結局は仕事や時間を大きく失うことになる。
早めに対処することで、トータルのコストを抑えるという点でも“コスパが良い”のは間違いありません。
ここで忘れてはいけないのは、
「薬で楽になった=健康に戻った」わけではないということです。
薬がくれるのは「治癒」ではなく、「猶予」なのかもしれません。
つまり、「動けるようにはなるけれど、無理をしていいサインではない」。
身体の内側ではまだ治癒が続いている。
でも、薬の効果によってその“治すプロセス”の声がかき消されてしまう。
だからこそ、楽になった瞬間こそ慎重になる必要がある。
無理をすれば、ぶり返したり、深い疲れを残したりするリスクがあるのです。
薬が悪いわけではありません。むしろ、ありがたい存在です。
私もこれからも使います。
ただ、薬の役割を「治すもの」と捉えると、誤解が生じる。
薬は「症状を一時的に感じにくくするもの」でもある。
それを正しく理解していれば、
“動ける今こそ、もう一歩休もう”という判断ができるようになります。
今回、薬で動けるようになった私は、逆にすごく疲れやすく、思考もにぶくなっていました。
「治った爽快感」とはほど遠い、何かを引きずっているような回復感。
この違和感に気づかずに動きすぎると、
“身体の声”を聞き逃し、ツケを後から払うことになります。
「症状が消えた=回復完了」ではない。
むしろ、そこからが身体の治癒の本番かもしれません。
医療の力を借りながらも、自分の身体の声に責任を持つ。
それは、年齢とともに身につけたい「回復の知恵」かもしれません。