ある日、ふとスマホを開くと、Googleフォトが通知を出してきた。 「ミミの思い出を振り返りませんか?」
……ミミ?
いや、これは“みたらし”の写真だ。
確かに似ている。毛色も雰囲気も、どこか重なる。
でも違う。 この写真は、今一緒に暮らしている“みたらし”だ。
GoogleフォトのAIは、 まだ“みたらし”のことを“ミミ”だと思っていた。
ミミは、当時ガールフレンドだった妻と一緒に迎えた猫だった。 僕たちはその後、紆余曲折を経て結婚し、 ミミはその結婚生活とともに、実に17年という長い時間を共にしてくれた存在だった。
おっとりしていて、人見知りだけど甘えん坊。 白っぽい三毛で、やさしい色合いの毛並みをしていた。
いつかは来るとわかっていても、 その日が来たとき、私はしばらく何もできなかった。
ミミがいなくなってから、Googleフォトは時々、 「思い出」としてミミの写真を見せてくれた。 それが少しつらくて、でも、ありがたかった。
そんな日々の後、我が家にやってきたのが“みたらし”。
たしかに、みたらしはミミのような模様を持っていた。 保護猫として紹介された写真の中で、 特に肩周りから背中のあたりがミミにそっくりだった。
見た瞬間、胸の奥がきゅっとなって、 迷いはなかった。
「この子を迎えよう」
そう決めるのに、時間はかからなかった。
最初は「似ているけど、違うな」と思っていた。 毛並みはふわふわ、目の色も少し違う。
でも、写真を撮るとどこかミミに似ていて、 GoogleフォトのAIは、そのたびに“ミミ”のフォルダに分類した。
私はそのたびに、
「これは“みたらし”だよ」
と、手動でタグを変えた。
その作業が、不思議と癒やしだった。
ミミを思い出しながら、 みたらしと今を過ごしている—— そんな感覚が、心にしみた。
つい先日。 Googleフォトが自動で写真を“みたらし”に分類していた。
ああ、と思った。
もう、AIの中でもみたらしは“みたらし”になったんだな。
タグ付けという地味な作業を、 AIが引き継いでくれたような気がした。
少し寂しくて、でもとても誇らしい気持ちになった。
猫が変わっても、写真は残る。 タグは変わっても、記憶はつながっている。
AIは間違えるけれど、 その間違いさえも、私にとっては大切な“記録”だった。
ミミを忘れたわけじゃない。 みたらしが代わりになったわけでもない。
ただ、時間が少しずつ、 「記憶」から「日常」へ、バトンを渡してくれた気がする。
そしてその“橋渡し役”になったのが、 他でもない、AIだったという不思議。
写真を見返すたび、私はまた、 ミミを思い出し、 みたらしのぬくもりを感じる。
それが、猫と私が歩いた2年間だった。