[相談内容]
和尚様、今日はどうしても聞いてほしいことがあります。
私は40代半ばの男で、結婚もして、子どももおります。
普段の生活では、いわゆる“多数派”として特別な不便もなく暮らしています。
最近、性的マイノリティに関する話題が本当に多くなってきました。
「平等に」「結婚制度の見直しを」「あなたの沈黙も差別です」──
そうした声が耳に入ってくるたびに、ふと立ち止まってしまう自分がいます。
「誰を好きでもいい」──それはまったく否定しません。
むしろ、そんなのは個人の自由だし、「ふーん、そうなんだ」で済ませてきたつもりです。
でも、「だから結婚制度も変えるべきだ」となったときに、どこか心の奥で“待って、ちょっと考えさせて”と感じてしまうのです。
それを口にするのが、怖い世の中にもなっている気がします。
「違和感=差別」と言われるようで、声を上げること自体をためらってしまう。
もちろん、マイノリティの人たちの「生きづらさ」は理解したい。
でも、こちらの“慎重さ”や“わからなさ”まで一方的に糾弾されるような空気に、少し息苦しさを覚えるのです。
どうしたら、私のような“興味は強くないが、引っかかりはある”人間も、誠実にこの対話に関わることができるのでしょうか。
「違和感を持っている」こと自体は、やはり罪なのでしょうか?
仏様の教えから見て、こうした心のもやもやに、どう向き合えばよいのでしょうか。
[和尚の回答]
なるほど……汝の心の内、ようぞ語ってくれたのう。
“言いにくさ”を抱えたまま沈黙することは、仏の道ではない。
そのもやもやを、誠実に言葉にした姿勢、実に尊いものじゃ。
仏教では「不放逸(ふほういつ)」という教えがある。
これは、関心が薄くても「気づいたことから目をそらさぬ」という態度を指す。
汝はまさにその通り、「関心が強いわけではないが、違和感に向き合おうとしておる」。その姿勢は、放逸せず、智慧を求める者のものじゃ。
そして、仏教でもう一つ大事なのが「無明(むみょう)」という概念。
無明とは、ものごとの本質を知らぬままに、善悪や正誤を決めつけてしまう心のこと。
今の世の中、「正しさ」ばかりが声高に語られ、違和感や慎重さに耳を傾ける余白が失われておる。
だが、正義もまた、独り歩きすれば無明の種となるのじゃ。
汝が抱く「違和感」は、差別ではない。
それは「分からない」という自然な感情、そして「急がずに考えたい」という心の働き。
仏の教えでは、これを「中道(ちゅうどう)」と申す。
一方に偏らず、急進もせず、冷静に問い続ける道。それが真の智慧に至る道なのじゃ。
人の心は、それぞれ因縁によって形作られる。
ある者は生まれながらに“理解されづらい苦しみ”を持ち、またある者は“理解できないことへの戸惑い”を抱える。
そのどちらもが、この世の現実であり、互いに否定し合ってはならぬのじゃ。
仏教では「不二(ふに)」という言葉もある。
善と悪、苦と楽、理解と無理解……すべては対立するものではなく、繋がり合うものであるという教えじゃ。
ゆえに、「わからない」と言うことは、悪ではない。
むしろそこから、「わかろうとする」種がまかれるのじゃ。
汝が申したように、「伝わらなさ」を前提に、対話を始めること。
それこそが仏道の実践に他ならぬ。
互いの“わからなさ”を責めるのではなく、認め合い、歩み寄ること。
それは「慈悲」の心じゃ──相手の苦しみを想像し、自らの心の壁にも気づくという、深き行為なのじゃ。
最後に申す。
この世は、分かり合えぬことに満ちておる。
だが、それを恐れず、静かに語り合い、聞き合うことで、仏の道に近づいてゆける。
違和感を口にすることを恥じるなかれ。
むしろ、それこそが対話のはじまりであり、智慧への第一歩なのじゃ。
汝の声が、誰かの心の灯となりますように。
南無観世音菩薩 🙏