[相談内容]
和尚様、どうかこの煩悩から私を救ってください。
私は40代の在宅ワーカーで、妻と小学生の娘がいます。普段はMac StudioとMacBook Air、そしてiPad Pro(11インチ 第2世代)を使い分けて仕事しています。正直、今の環境に大きな不満はないんです。iPad Proは家では無双。動画編集から原稿チェック、電子書籍まで、何でもこなしてくれる相棒です。
しかし、最近気づいてしまったのです。「Proって、持ち歩くには重いよな……」と。
そこで急浮上してきたのが、iPad mini(第6世代か第7世代)への興味。小さくて軽くて、片手でも扱える。PDFの赤入れも、車のナビにも使える。そんな利便性を考えると、つい「これ、理想かも」と思ってしまいます。
でも、その一方で「またProが恋しくなるのでは?」という不安も消えません。「miniではパワー不足」「やっぱり万能なProが正義」そんな意見も目にすると、心が千切れそうになります。
Proを据え置き機として活かし続けるか、miniで身軽さを優先するか。あるいは、何も買わず、紙とMacだけでやっていくか……。
こんな些細なこと、仏様は笑ってしまうかもしれません。でも私にとっては、日々の快適さに直結する大きな問題なんです。
和尚様、この煩悩、どう整理すればよいのでしょうか。
[和尚の回答]
ふむふむ……ガジェットの選択に心がぐるぐるしておるのじゃな。それは決して笑い事ではない。日々を共にする道具こそ、我々の“行”に深く関わるのじゃ。
仏教の教えに「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉がある。欲を少なくし、今あるもので足りることを知る、という意味じゃ。iPad Proを既に持っておって、それが無双に便利であれば、少欲知足の心で「もう十分」と受け止める道もあるのじゃ。
しかし一方で、仏は**方便(ほうべん)**を重んじられた。すなわち、真理に至る手段として、その時その場に最適な手法を選ぶということ。miniの軽さが今の生活スタイルに合い、持ち出す機会が増えることで日々が豊かになるのであれば、それもまた智慧の選択と言える。
万能性という名の“義務感”に縛られておるならば、それは仏教でいう「執着(しゅうじゃく)」じゃ。iPad Proを「使わねばもったいない」と思う心は、知らぬ間に汝の自由を縛っておるかもしれぬの。
逆に、iPad miniの「軽さ」や「気軽さ」に惹かれているのは、「心の自在さ」への欲求かもしれん。仏教でいう「解脱(げだつ)」じゃな。重さや多機能からの解放を望むその心、実は汝の内なる智慧の声かもしれんのじゃ。
ではどちらを選ぶべきか? それは、未来にどう生きたいか、によるのじゃ。
もし“今この瞬間”を重視し、軽やかに日々を歩みたいなら、miniが良き伴侶となるじゃろう。
しかし“未来の可能性”を広く取っておきたいなら、Proを据え置きで活かす道もまた正解じゃ。
「今何にもっとも価値を感じるか」で決めるのが良い。もし購入しても後悔するかもしれぬ。されど、買わずに心に引っかかりが残るなら、それもまた煩悩の種となる。
つまりこうじゃ── 「迷いの中にこそ、真実がある」 この“ぐるぐる”を否定せず、むしろ味わい尽くすのじゃ。それが生きている証、選ぶことのできる贅沢というもの。
最後に一句贈ろう。 手に余る 知恵もまたよし ただひとつ
軽さに宿る 自在の道あり
汝の選びし道に、仏の光が差しますように🙏