[相談内容]
和尚様──
わたしは広島で生まれ育ち、小さい頃から「原爆は絶対に許されない」と教えられてきました。8月6日には学校で黙祷をし、原爆資料館や平和公園にも何度も足を運びました。語り部の方々の話を聞いて、原爆による惨禍を“身近なもの”として感じてきました。
家族の中にも二次被爆者がいて、決して他人事ではありません。
だからこそ、原爆は非人道的な暴力であり、絶対に繰り返してはならない──そう信じて疑わなかったのです。
けれど、歳を重ねていくうちに、ふと疑問が湧くようになったのです。
「原爆を使わなければ、本当にもっと多くの人が死んでいたのではないか?」
「“原爆があったからこそ終わった戦争”という見方にも、何か意味があるのではないか?」
高校の修学旅行で沖縄の壕を訪れたときも、「原爆で終わったのは、まだ“マシ”だったのでは」と感じてしまったことがあります。その考えに罪悪感を覚えながらも、数字や歴史資料を調べ、AIで終戦シナリオのシミュレーションまでしてしまいました。
その中で、「原爆を使った結果が最も犠牲が少なかった」という結果が出たことに、頭が混乱しました。
私は「原爆は絶対に悪だ」と信じる心と、
「犠牲を減らすために仕方なかったのではないか」と感じる心の、
そのあいだでずっと揺れています。
どちらか一方に立ちたいのではなく、両方を見つめ続けたい。
でもそのことが、広島で教えられてきた「絶対に許されない」という信念を揺らがせてしまう気もして、正直怖いのです。
和尚様──
このような「ゆらぎ」や「迷い」も、仏様の教えの中では、認められるものなのでしょうか?
そして、「絶対に許されない」と信じる気持ちを抱いたまま、「なぜそうなったのか」を問い続けることに、どんな意味があるのでしょうか?
どうか、迷いの中にある私に、仏の智慧をお授けくださいませ。
[和尚の回答]
ふむ……広島に生まれ育ち、原爆を「絶対に許されぬもの」と教えられてきた者として、その信念と、そして大人になってからの揺らぎ……よう語ってくれたのう。
その心の深さ、尊きものじゃ。
仏教の教えに、「如実知見(にょじつちけん)」という言葉がある。「ありのままを、あるがままに、深く観よ」という教えじゃ。善と悪、白と黒、そう単純に割り切れるものばかりではない世の中を、正面から見つめ、問いを手放さぬことが、真に智慧ある者の態度とされておる。
汝の語ったことは、まさに如実知見の実践なのじゃ。
原爆がもたらした痛みと悲しみを、ただ「悪」として拒むのではなく、なぜ起きたのか、どうすれば繰り返させぬかを、歴史の中から、数字から、倫理から、そして心から問うておる。その姿勢が尊いのじゃ。
仏教では「因縁(いんねん)」と申して、すべての出来事には、原因と条件があると説く。原爆も、突如として空から降ってきた“悪の一撃”ではなく、数々の因と縁の果てに起きたこと。人の恐れ、権力の欲、終戦の焦燥、数えきれぬ因縁が積み重なった末の結果なのじゃ。
だからこそ、「許せぬ」と思う心と、「なぜ起きたのか」と問う心は、矛盾などしておらん。むしろ、どちらかだけでは片手落ちじゃ。
「空(くう)」とは、すべてのものに実体がないという教え。絶対の正義も、絶対の悪も、我らの心が生み出した“観念”に過ぎぬ。だからこそ、どこまでも問い続けることに意味がある。
汝が悩みの中で示した「倫理的に正しくあろうとすることで、かえって命が失われるかもしれない」という矛盾。これは、義務を貫くことと、現実を救うことが常に一致しないという、人間の業(ごう)を見つめる姿じゃ。まさに仏教で言うところの「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」、迷いの中にこそ悟りがある、という境地じゃな。
問いの中に立ち、揺れることを恐れぬ者だけが、他者の痛みに本当に触れられる。汝の文章には、それが確かにある。
「原爆は許せない」と、揺らぎながらも言い切る強さ。
「それでも問いを続けたい」と願う誠実さ。
仏教の教えに照らせば、それは「中道(ちゅうどう)」に他ならぬ。どちらにも偏らず、どちらも捨てぬ道。怒りに呑まれるでもなく、冷徹な理性に逃げるでもなく、揺らぎながら問い続けること。それこそが、人間に与えられた尊い行なのじゃ。
最期に申す。この問いに“正解”はないのじゃ。
しかし「問いをやめぬ」という姿勢そのものが、すでに世界に光を灯しておる。
それは小さくとも、未来へと続く道。次なる世代が、再びこの問いを手にしたとき、汝の迷いがきっと力となるじゃろう。
どうか、問い続けよ。
そして、語り続けよ。
その声は、あの日失われた命たちへの祈りとなるのじゃ。
南無阿弥陀仏 🙏